柳田富士松に関する関係者の言葉シリーズ④「鈴木商店ゆかりの企業の元幹部の言葉」

主家の繁栄以外眼中になく、至誠奉公の純情を貫く

■浅田長平(神戸製鋼所社長・会長、日本鉄鋼協会会長)
大正五年、日比の精錬所で鉛の製錬とともに銅の製錬もやっていました時、神戸の鈴木商店にて柳田さんから次の様な質問を受けた。

当時日本は銅の輸出国であり古河、住友、三菱、久原、藤田等が主なるもので、中でも特に古河の製品が外国に一番歓迎せられていたが、これはどういう訳かとの質問であった。

私は返答に困った。すると柳田さんは「商品は使用者に対する永年の信用が即ち歓迎せられる根本である。それは品質が一定していて使用者が使いよいのが第一で、君が日比で銅の製錬をするにはこの注意が一番肝腎だ」と言われた。

当時私は三十才前後であったが非常に深い感銘を受け、今日も常にこの心掛けでやっている。その後私は日比を去って神戸製鋼所に戻り線材の製造を始めたが、柳田さんの御訓戒を思い出し、線材の如く一般の用途の多い市場品において特にブランドが大切であると痛感した。

使用者が分析もテストもせず、無条件で使用するという信用のおける製品を作らねばならないという気持ちで製造をやって来た。爾来関係者なり後継者の方々もその主義でやってもらっているので、幸いに今日の神戸製鋼所の線材は業界の信用と多大の名声を受けている次第です。

これは(ひとえ)に柳田さんの当時の訓戒の賜と深く感謝しているとともに、真に柳田さんは事業の指導者であり真の大商人であったと思います。(抜粋)


■松島誠(東レザー常務取締役、帝国人造絹糸専務取締役)
柳田氏は鈴木商店の大黒柱にして真面目の人格者たり。私の柳田氏を知りしは、二十四、五歳の自分が神戸三井物産に居り樟脳の仕事に従事せる際にて、その当時鈴木商店は内海岸通五丁目の所にあり、樟脳と砂糖の問屋にて、前垂(まえだれ)掛け和服の昔堅気の御店にて、樟脳、樟脳油は金子直吉翁の御係り、砂糖は柳田冨士松翁の御係り主任にて、西川文蔵氏が会計記帳と三者一体の如くにして主宰せられ、初代御主人鈴木岩治郎様は日清事変の明治二十七、八年頃に御逝去になり、西田忠右衛門氏、御家様の親元御兄弟の御方が後見人として御出(おいで)になりし当時のことと記憶す。・・・・

樟脳油の製造下請負を鈴木、池田両店と約束せる保證金に鈴木商店より銀行定期預金證書五万円宛五枚、金二十五万円也の供託を三井物産支店が預り、内地樟脳油を鈴木と池田商店に荷渡し、再製して樟脳として受取る仕事に預りたるが、一ヶ年経過し取引完了せるも、三井物産にて綿花輸入の為替資金の方に定期期日に取立て流用したる為、鈴木商店に再三再四自分が参り、返却延滞の断りに使いして柳田氏に会い、金子氏、西川氏が立腹されて自分の困却せるに同情せられ、延期を承諾して下され、約六、七ヶ月後れ、三井より支払いを受け解決せり。

金子氏は天下の三井が返却を待てと引張るは不思議と御叱りにて、自分は閉口せるを柳田氏に助けられたり。(大三井でも鈴木へ不払の時代があった)‥‥ 柳田氏は金子氏の女房役として鈴木商店内部に重きを為し、個人としての信用厚く、銀行にての信用最も厚き人たり。(抜粋)


■小川実三郎(日輪ゴム工業社長、日商監査役)
その頃の柳田さんは毎日大阪へ出勤されていたが、出勤に先立ち大てい神戸の本店へ立寄られた。本店へ見えると必ず外国部の部屋に来られた。外国部というのは外国通信部のことで、毎朝欧米その他からの入電と外国郵便到着日には海外からの郵便も何十何百通と配達されたが、柳田さんは係員の机の(そば)に来られて、あの親しみのある微笑を浮べ乍ながらも実に熱心に之等の商況に耳を傾けられた。

係員は私の入店当初は高畑さんだったが、同氏が間もなく(ロン)(ドン)に行かれてから暫く永井さんが受持たれたが、永井さんも亦じきに倫敦へ転ぜられたので、その後は新帰朝の芳川さんが担当された。芳川さんは多年親しく欧米取引先に面接されて来たので、入電でも来信でも極めて熱心に柳田さんに話しておられた。かくて、大阪支店へ行かれる柳田さんの頭の中には砂糖の世界情勢が入れられてあった。

以上は大正二三年頃のことであるが、今私が目を閉じて当時を追想すると、あの黙々として芳川さんから海外情況を聞かれる柳田さんの真摯、熱心な温容が眼底に浮んで来る。

その後、我が鈴木商店は第一次世界大戦を契機に大発展をなし、砂糖においても世界一流の糖商として国際市場に雄名を馳せたが、その基礎は実にこの柳田さんの熱意と翁の薫陶を受けた幾多の青年社員にあったことは云うまでもない。

柳田さんに対し一層敬服に堪えないことは、翁の主家第一と云うより寧ろ眼中主家以外に何物もないと云う犠牲的精神、即ち至誠奉公の純情である。

時代が違ったとは云え、今日の社会が一挙一動に民主々義を振り廻わし、個人の権利のみを主張し、()の半面たる義務を顧みない自己本位の世相を目の当りに見るにつけ、翁の自己没却(ぼっきゃく)の生涯こそ吾等に尊き教訓を垂れるものと()うべく、翁()いて二十年、(ここ)(しょう)(とく)の挙を見るに至ったことは又(ゆえ)無きに非ずと、衷心(ちゅうしん)欣快(きんかい)に堪えぬ次第である。(抜粋)

以上、「柳田富士松傳」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より

  • 浅田長平
  • 松島誠
  • 小川実三郎

TOP