金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ①「鈴木家・金子家の親族の言葉」

事業に全身全霊を打ち込む一方、清廉にして私欲をもたず愛情・温情に満ちた人

鈴木岩蔵(鈴木岩治郎の三男、帝国人造絹糸初代社長、太陽曹達初代社長、太陽鉱工初代会長)
金子氏の無頓着は有名であるが、小僧時代に朝着物を裏がえしたまま平気でその(まま)使に行ったのには母も困ったものだとコボしていた。このような無頓着から起こった逸話は中々多く、例を挙げれば限がない。

記憶力の良いことは頭脳の明晰と共に金子氏の特色の一つである。それが如何にして常に保たれていたかというと、永年の間に養われた随時随所で五分でも十分でも熟睡すること出来た精神集中力である。あの南船北馬(なんせんほくば)席の暖まる暇なき大活動が出来た原因もこの辺にあるのではないかと想われる。太閤の後に太閤なしの(ことわざ)通り、天才的人物の後に天才なしである。僕は野心を殺し、成るべくジャマにならぬ様に心がけたものである。(抜粋)

金子文蔵(ぶんぞう)(金子直吉の長男、太陽産業監査役、太陽鉱工監査役)
父の一生は実に波瀾曲折に富み、住居も幾度も変って居ます。鈴木商店に入店以来明治三十四年までは神戸市東川崎町に、それ以後四十一年頃までは小野柄町通四丁目(現日本樟脳工場)に、昭和二年までは須磨二の谷及一の谷(一の谷の宅は現太陽産業株式会社寮)に、二年以後九年頃までは東京市赤坂区檜町五(乃木神社前)、昭和十年より十九年まで神戸市外御影町掛田でした。

父はこれ等各時代を通じ誠に忙しく朝早くより夜遅くまで仕事第一としてこまねずみの如く働いていました。晩年の或る日「日曜も祭日も休みなさらないが、ちと休日を作られては」と申すと「いや御国の仕事に休日はない。自分達も一日として休みがあってはならない」と申されました。このように仕事には実に熱心で真に全身全霊を打ち込むことのできた人でした。

(しか)し、家庭では実に謙虚で温情にみちた人でした。普通の家庭とは異り家族と食事を共にすることは殆どありませんでしたが、食事のことで父が不平を言ったことは生涯に一度もなかったと信じます。

それに大変な子供好きで、寸暇があれば私達を相手に色々と話をして、それとなく得難い教訓を与てくれたものです。老齢になってからも孫共を朝夕身辺によびよせ、大変な可愛がりようでした。

亡父は外観の粗剛に似ず、肝裏に深い愛情を秘めた人で、従って又稀に見る親孝行でした。九十二才の長寿を保った祖母に対する孝養は私どもにも心に深く刻まれております。小生は小学校五年の折、高知の小学校に転校しましたが、その時祖母を神戸に呼ぶには(よわい)すでに高く到底出来ないので、お前が行き祖母をなぐさめてくれと申したものでした。弟の(くす)()さん夫婦にばかり祖母を見させることが気になって居たのです。

家に伝えるべきものを集め入れた書庫を取り出し、祖母の手になりし麻布など眺めながら、私の家内にもよく年老いて後も糸を紡ぎ、一日も無為に過さなかった祖母の人となりなどを話して聞かせたものです。叔父の楠馬さんに対しても実に親切で、その要求にさからったことは殆ど絶無だったようです。

また、元の主家土佐の傍士(ぼうし)家(母の実家)に対しても普通人では出来ない程よくつとめられました。母方の祖父は貧より身を起し、当時としてはかなりの富をなした人でなかなかの傑物でした。従って商いの骨(コツ)についてはこの人から学んだことが相当多かったらしく、何時も感謝の念を以て私どもに話して居ました。須磨の療病院に入れて何くれとなく孝養を尽したのも、主たる師たるこの祖父に対する謝意の表れだったと思います。

又母の兄弟たちに対しても主家に対する礼を以てすることを生涯忘れませんでした。こういう点で、なかなか武士的気骨があり、別に素養もないのに儒教道徳は父には自ら備わっていました。

(つぎ)に漢文は所謂(いわゆる)棒読みながら比較的良く理解し、大学教育を受けた私どもの方が恥かしくなることがありました。論語、孫子、唐詩選は晩年に到っての亡父の愛読書でした。殊に孫子童観という書物は父には想出の深いもののようでした。紙屋の外質屋でも傍士家には零落士族で書籍を質入れするものが多く、そのなかに右の書物があって、父は殆ど寝食を忘れて貪り読み商いの工夫をこらしたそうです。

父は子孫に美田を残さずとの信念で、実に清廉にして私欲がありませんでした。鈴木商店挫折の時須磨一の谷の家財全部、それこそ家の者達の郵便貯金に至るまで提出し、整理にこられし台湾銀行の人々を驚かした程でした。小生も丁度アメリカにゆくべく旅行免状も貰って居りましたが、それっきり取り止めになりました。実に生涯を通じ一貫したこの信念に生き、これを実行せし父こそ、私どもへ偉大なる無形の遺産を残されし人です。

尚、もう一つの遺産は私共の家で所謂書生として生活した多くの方々でしょう。昭和二年まで、どの時代にも丁度一種の塾のようなわが家でした。ただ普通の塾と異り学資から食事すべて我が子同様にし、何等そくばくもせず最高学府に進ませ、卒業後も各自の思うままに雄飛させ、よき人々を作り出すことを、何よりの喜びとしていたようです。それでこれらの方々も休暇でも己が実家に帰らず、小生の父母のもとに帰りきて、休みを一同で楽しく過ごしたものでした。その後も十五六人或はそれ以上でしょうが多くは現在指導的地位にあられる方々で、発起人執筆者諸氏等と共にこれ等の方々の有形無形の御高援は私ども何時も深く感謝しているところです。(抜粋)

以上、「柳田富士松伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より


金子武蔵(たけぞう)(金子直吉の次男、東京大学文学部教授、哲学者・倫理学者)
父は欠点ばかり受け継いだ私を、若き日の自分の将来のように感じたためか、行末を案じて時にはマユをひそめることがあったにしても、しかしいつも胸中無限の愛情をひめて接してくれ、将来の志望選択についても、自分の意思はすべて否定して私の望むにまかせ、ただ時折自分の経験し、体験したことから私の将来に関することを選んで話をしてそれとなく導いてくれた。

そして父は私をただ一度たりとも欺いたことがなかった。冷酷と虚偽の多いこの世の中において、愛情と真実との存在を証明してくれたのは、ほかならぬ父だけである。耐えられないほどの苦しいことのあるとき、私は父のもとに帰りたいと思う。「タケゾウ、もう働くのはよせ」という声がすれば、いまでも私は喜んでこの世を去るであろう。「父なる神」ということが私にもしみじみと実感できるのである。 

だから私はこの機会に彼の事業場の後継者諸氏に対して深甚(しんじん)の謝意を表せざるを得ない。創業の困難なのはもちろんのことであるが、しかしまた蹉跌(さてつ)を乗り越え激しい競争に打ち勝ち、変転極まりない情勢に即応しつつ、しかも時としては忍びがたき悪評にも耐えつつ、事業を継承発展させることは並大抵の努力ではない。父は子孫に美田を買う意志をいささかももたなかったから、彼の創始した数々の事業が今日のごとく発展していることに無限の喜びを感じていることであろう。(抜粋)

「松方・金子物語」(昭和35年6月1日発行、著者:藤本光城、発行:竹内重一)より

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金子武蔵
父は小学校へさえ通ったことはなく、少年の頃に近所の神主さんから字を習ったことがあるだけである。しかし丁稚時代に武家が質入れした「孫子」に親しんだ父は日本外史程度の漢文なら白分でも棒読みながら大意を解したし、晩年には読みくだしの唐詩選(とうしせん)を手にしながら「上手じゃのう」、「上手じゃのう」と感歎(かんたん)の声をあげていた。

書家としての嵯峨天皇、空海、(おう)羲之(ぎし)などの存在も晩年には知っていたかに記憶する。しかし特別に師について学ぶという意志はなく、また拓本を買ってきて臨校することさえなかった。ただ父はいつも筆墨(ひつぼく)に親しんだ。ポケットには人並みに手帳を入れ、これに鉛筆でメモをとっていたが、少しまとまってものを書くときには筆で巻紙に書いた。書状だけでなく、書類のときもそうであった。父は何故かペンを好まず、生涯筆を用いつづけた。とにかく私はペンを使っている父を一度も見たことがない。想を練るにさいして筆硯(ひっけん)を友とした亡父は書には習熟していた。(抜粋)

「金子直吉遺芳集」(昭和47年1月1日発行、編集人:柳田義一 [辰巳会本部])より

金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ②「鈴木商店元社員の言葉」

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