金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ②「鈴木商店元社員の言葉」
真に不世出の英雄、失望と落胆を知らぬ不撓不屈の精神の権化
■高畑誠一(鈴木商店ロンドン支店長、日商会長、太陽産業社長、太陽鉱工社長)
金子さんは人も知る通り明治、大正を通じ経済界の生んだ最も先見の明のある最高の偉人であり、最もパイオニアリングスピリットに富んだ口八丁手八丁、三面六臂の人。
金子翁の商工業に関する知識の該博なりし事も生来怜悧の上に勉強されたるのみならず、中年よりは耳学問により、よく内外の情報を咀嚼され、皆之を自己の物として呑込まれ画策されたことは遖れである。
どんな事に対しても一応の見識を持たれ、どんな事業に対しても一度手を染められればその成功完遂するまでは損失を度外視し、成功の彼岸に到達する最後迄は如何なる悪条件に逢着する共中途で放棄せず、何等悲観せず何とか工夫して是をやり抜かんとされる努力、そのねばり強い事は常人の企て及ばざる処、これが金子翁の長所であり欠点といえば欠点、人間は神ならぬ身のアラを探せば何処かに欠点はある筈、昔の人で正式の教育を受けぬ人が最高の教育を受けたる一流人を向うに廻して政治経済問題で堂々と論陣をはり、何等ひけを取らぬ所か却ってやり込められる、通貨問題の論戦の如きはその好適例である。
金子翁の事業欲は津々として死ぬ迄尽きず鈴木商店整理完了後はその再興を謀る為、手当り次第種々の構想を以て相変らず四方八方に手を拡げんとされ、次から次へと内外の事業の目論見、研究、調査を案出された事は真の天才であって、西川玉之助老人をして「よくも人間の頭にて斯くも次から次へと異なる事を考へ得るもの哉」と嘆聲を洩らさしめしも故ありというべしである。
進むを知って退くを知らず、拡張は好きであるが縮小は嫌い、買入は上手で売るのは不得手、全身これ知恵袋で形成され、身に辺幅を飾らず主家の為、事業の為、国家の為に最後迄懸命の努力を続けられ、金子マイナス事業ゼロの方程式通り事業が道楽で商売が生命、如何に普通人と異なっていたかを如実に物語るものである。多数の店員を真に手足の如く指揮され、部下を道具の如く使役されたる事も金子翁の一大特徴であった。
鈴木商店には澤山の人材を包容されしも、金子独裁政治なりし為め金子翁に反対意見を吐く者少なく、又ありたりとするも、金子翁は自己の主張を飽迄押し通された。その理由を忖度するに、翁より見れば総べての人は青二才としか見えず、又事実しかありし事と信ず。
然るにも不拘私は生意気にも、大先輩、大恩人なる金子翁に対し自分の信じたる是々非々主義で臨み、相当以上の反論も敢えて為したる為その都度逆鱗に触れ、御叱りを蒙りたるも、奈何せん私の主として折衝せしは帰朝して鈴木没落後の再興時代、時恰も日支事変より金子翁の晩年、嫌厭さるる統制経済となり、一生涯自由経済畑に慣れた身の翁にとりては不可解、不愉快の事のみにして、老い先短きを知らるる翁にとりては鈴木時代翁の余り好まれざりし鉱山業に迄も手を染め、功を急ぎ時には無軌道を走られ、一攫千金を夢見られた如き事も往々にして無きにしもあらざりしやに見受けられたことは大に同情に値す。
併し顧みれば、若し鈴木商店が金子さんの夢想された如く天下を三井、三菱と三分され隆々連綿今日まで継続していたならば、終戦後大財閥として本元は解体せしめられ、持株は強制売却、従って強制破産と大差なく、各所の幹部は追放の憂目に会いし事ならんと想像され、若し金子さんが今日まで存命し、この敗戦により翁が全智全能を打ち込まれ、苦心惨憺一生涯の内外に於ける努力の結晶が一朝にして水泡に帰し去りしを現実に見られたならば、翁としては死んでも死にきれなかったと思われる。戦終らざる以前に戦勝を信じて不帰の客となられたことは却って不幸中の幸いであった。
金子さんの信念は事業にあり、必成功の信仰にあり、損をしても損をせず、破産しても破産したと思わず、死んでも死んだとは思わぬ不死身、之が金子哲学であった。真に不世出の英雄、日本の生み出した最大の実業家であった。(抜粋)
「柳田富士松伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より
■高畑誠一
松方・金子両翁ともに神戸を本拠として国家的事業を開拓した先覚者で、似通った点が非常に多い。
例えば事業が道楽で花柳の巷に遊ばない。日曜でも会社に出て事業の計画を進め、海外にも進出した。進取の気性に富んだ事業家、実業家である点でご両人とも一致している。
そのため第一次大戦の前後から両翁は神戸に在住の関係で、所謂馬が合うというか意気投合され、
しばしば相談されたが、松方さんは川崎造船所を中心とし、海軍を土台に造艦、造船、造機、鉄板などの重工業から航空、車輌まで経営され、第一次大戦後のデフレによる金融的蹉跌はあったとしても、今日凡ての川崎グループがわが国の超一流会社として残存し、松方さんの薫陶を受けた子分は綺羅星の如く各方面に発展活動されていることは万人の知る処。
金子さんもまた然り。金子マイナス事業イコール、ジェロの方程式で、工業というか製造業と心中した人である。何程借金しても事業をやる、やり遂げるということに没頭され、自分を遇するに薄く、凡てを国家および主家のために捧げ、事業が面白いからやるというのが Kanekoisum - 金子哲学で、六十社以上の関係会社を持ち、種々雑多の工業と商事を経営したのである。
あの教育のないSelf・made man は真に立志伝中の人で、高等教育を受けた人よりも科学する頭の持主で、各方面の専門家の意見を耳より取った常人の真似の出来ない人。重工業に、化学工業に、繊維工業に、砂糖、製粉、肥料、食糧などの工業に、また保険事業までも、ありとあらゆる仕事に手を出した人。ある老人の重役が当時、金子さんを評して「よくも次から次へと考え出して企業を計画されるものかな! 一連のチェーンのように、関連性のある工業連鎖の着想であった」と讃嘆した。
金子さんも松方さんも同じく終りを全うされなかったが、金子さんの生気のかかった事業は今もなお全国に隆々として残っている。神鋼、帝人、播磨造船、豊年、日商、羽幌炭礦などはその例の一部である。家の子郎党もまた諸方面に活躍している。松方さんも金子さんも神戸の生んだ日本の偉大な事業家で、気宇も大であり、明治の末期、大正時代に世界を股にかけて雄飛せんとしたことも一致している。(抜粋)
「松方・金子物語」(昭和35年6月1日発行、著者:藤本光城、発行:竹内重一)より
■高畑誠一
世間では金子さんが私利私欲を全然度外視して事業を敢行されるのを見て、金子翁は事業気違いか産業狂かと誤解されたと思われる位、日本は工業化しなければ世界的に頭が上がらないという強い信念の下に一生を閉じた人です。
金子さんは明治及び大正初期の真の実業家で、小さい山国で資源に乏しい日本を強大にするには工業による外に道はない、兎に角、海外の原材料獲得に急げ、工業立国を進め、重工業・化学工業・エネルギーのソースを確保せよと、現在一九七一年の世界の最高のランクに到達した日本を五〇年、六〇年前の明治時代に予見透視されたのか、自ら陣頭に立ち明治の末期から大正時代に既に現代の多数の企業家の活動をその時既に予見して推進された、その先見の明には頭が下がらざるを得ないのです。
今の日本の世界第三位の工業国になってからの着想ではなくて、あの第二流国時代からの考え方で六〇年前に豪州西北岸の鉄資源、マレーシア東岸の鉱石、ボルネオのラバー、プランテーションの奥地開発、その他石炭等次から次への現地開発や計画、之等南洋開発の任に当っていた日沙商会の西川玉之助翁曰く「金子さんは寝ても起きても四六時中、次から次へと事業開発の計画を強調され、調査命令が下るが、よくあの着想が出るものだ」と感心されていたが、誠にその通りで一種不思議な企業家、今日の世界的日本になった我が国の実業家も昔の金子翁の着想をコピーしたように思われる。あの人の爪のあかでも煎じて飲みたいぐらいである。(抜粋)
「金子直吉遺芳集」(昭和47年1月1日発行、編集人:柳田義一[辰巳会本部])より
■永井幸太郎(鈴木商店取締役本店総支配人、日商社長、商工省貿易庁長官)
金子さんは先見の明が頗る強かった。時にはよく泳ぐ者溺るる如く、自分の明に負けたという嫌いがある位であった。スターリンは独裁者である。金子さんも独裁者であった。然しスターリンは言っている「指導者は大衆より遅れてはならぬが、先んじても不可である。大衆と共に進まねばならぬ」と。時々金子さんは大衆に先んじ時勢の熟するを俟たずして進み過ぎた場合もあった。従って世間や政府が金子さんの説を受け入れないで笛吹けど踊らず、自分で焦慮しておられる様な事が多かった様に思う。
金子さんは思慮周到、注意周到であった。殊にその前半生において然りであった。大里に製糖所を建設するに当り爪哇から原料糖を輸入するにも精製糖を支那へ輸出するにも、燃料石炭を得るにも、北九州の一角大里の優秀なる地点である事を見抜かれたのは勿論敬服する次第である。之も今から見れば当然の事であるけれ共、当時多くの事業家が北九州に眼を注げぬ時に金子さんが鋭くも之に眼をつけた処は偉いと思う。
処が当時の競争者としては香港にあるジャーデンの製糖所であって、金子さんはひそかに人を香港に派して同製糖所の煙突の煙の出る日数と時間とを報告させ、上海その他各地へ砂糖を積出す俵数の統計を取らせたりして其の製造高と輸出量も手に取る如く知って居たと云って居られた。
又薄荷の競争相手は米国の某州にある。それで今は故人となった小林恒三郎君を米国に留学させて勉強の傍ら、米国の薄荷の出来高を刈取りを待たず速報せしめて居た。計を密にし、敵情を知悉するために此様な周到な注意を払って居られた。惜しい哉、後年事業が余り多くなり多忙を極められてからは此の特徴は幾分歪曲せられた様に思う。(抜粋)
「柳田富士松伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より
■永井幸太郎
金子直吉翁は死んだが、残した事業のなかに今日もなお生きている。翁の残した事業は神戸製鋼所、播磨造船所、帝国人絹、豊年製油、日商などをはじめとして、五十になんなんとしている。
鈴木商店が解散したということを以て、翁がその終りを全うしなかったとするのは偏見であり、誤りであると思う。残した多くの事業をはらんだ母体である鈴木財閥は、その子会社がおのおの発展自立して一応成人の時期に達したため自然独立分離し、従って母体が解体するという現象を呈したにすぎない。
ただその解体を促進せしめたものは、鈴木商店の特異な資本構成のためであった。世間一般に、事業会社は株式を公開し大衆あるいは金融機関の出資によるのが普通であるのに、鈴木商店の場合これを借入金に頼り、しかも台湾銀行をほとんど唯一の窓口とし、その窓口を通じてコール・マネーの利用にまでおよんだ。このため不況時の対策として一般事業会社のように減配したり減資したりすることができず、むしろ利息の高騰に苦しめられることになった。
すべての事業にその全権を把握して、株主の干渉を許さないことが事業を推進する上にもっともよい方法である、と信じたのが翁一生の誤算であったと思われる。翁にしてなおこの過あり、とでもいうほかはない。
しかしながら翁が先見の明に富み、実行力を兼ね備えた傑物であったことは誰もが認めるところである。惜しむらくは大衆に先んじすぎて時勢の熟するを待たず突進したきらいがあり、時の政府や世間一般翁の説を受入れようとしないため焦慮していたようなことが多かった。
反面、果断先行が実を結んだ事例としては、人造絹糸を創始したり、大豆のベンジン抽出法を大規模に工業化したり、また硬化油工業に先鞭をつけたり、その他大小の例は数多くあり、その着眼の鋭さと果断な実行力はわが国事業界に独歩の地位を占めている。
最後にわが国経済の発展にとって翁の功罪を問うならば、いうまでもなく償って余りありと答えるにやぶさかでないばかりでなく、その功績は年を経るに従って重きを加えるものと思われる。(抜粋)
「松方・金子物語」(昭和35年6月1日発行、著者:藤本光城、発行:竹内重一)より
■永井幸太郎
私にとっては金子翁は師父と呼んだが一番適切に思われて、尊敬と親しみと信頼とを今に至るまでも、なお禁じ得ないのである。
金子さんは失敗したか成功したか。世俗的な意味では、鈴木の事業が解体して多くの人の手に分離されたという事が失敗であるといえば失敗である。ただし、私から考えれば立派に成功したと言って憚らない。
金子さんがわが国において先鞭をつけた事業の主たるものを数えて見れば、帝国人絹の如き、これは初めにドイツから人絹の見本が神戸税関に輸入せられてより直ちにその事業の研究実験に着手し、他の同業会社と異なり外国に対しなんらの特許料を支払うことなく、これには勿論帝人の故久村さんの力によることが多いといえども、久村さんをあくまで指導して今日あらしめたる如き、また神戸製鋼所を育成して得意の鉄鋼兼機械工業を盛り立てたり、又わが国油脂界の王座を占むる豊年製油の如きは、旧来の大豆圧搾法よりベンヂン抽出法に転換する如き事は、当時においては油脂界における革命的な事柄と目されていたものを勇敢に取り上げたが如き、又わが国に化学工業を発達せしむべき必要を痛感し、大日本塩業会社を創立して青島関東州における塩田を開発したる如き、領台直後、後藤新平氏の懇請黙し難く台湾を視察して同島における糖業政策樹立に当り、或は肥料界に於ては、当時独逸のハーバー式高圧高熱の空中窒素固定の方式にあらざれば硫安肥料の製造不可能にして而もハーバー式に対する不利なる特許料支払を強要せられたる際、敢然としてクロード式の空中固定窒素製法に成功し、今日わが国化学肥料の発展に大なる貢献をなしたる如き、なお他に指を屈するに遑なき次第であるが、これらの事業は世人の知る通り、戦前戦後においてわが国経済発展のため重要なる役割を果していることは、今更蝶々するを要しないところである。
金子翁の常に口にせし如く生産報国の大目的は十分に成功を納めたるものと言うべく、仮に昭和二年の恐慌に堪えて鈴木の傘下にこれらの事業を一財閥の下に把握し得たとしても、終戦後財閥解体の運命に立ち至りしなるべく、その結果は敢えてなんの差異なき事となったであろうと思われる。やはり私は、金子さんは立派に成功した人であると言うことを憚らぬのである。
ただ世間的に見て、鈴木の事業としてどうしてああいう結果なったかをたずねで見るのに、その原因はただ一つである。それは金子さんという人は個人として自ら持すること極めて薄く、性極めて恬淡自分一個の私欲という事がなかったが、その事業欲、事業に対する支配欲の極めて旺盛なるため資本を公衆より求め、多数の株主から掣肘を受けることを極めて嫌ったために、株式資本によって事業を営むことを嫌い、特殊銀行等の借入金等によって事業を経営しようとの考えが強かったがために、当時事業不振の会社は続々として或は減資、或は減配当等によって事業の立直りを策することができたけれども、借入資本による場合はもとより不可能。斯る場合には利息も高く払わねばならぬというようなために、鈴木としては解体を余儀なくされた次第であって、その差異はただそれだけの事である。失敗といえばこれだけの事である。ただし志すところ、事業報国であったので翁としては残念であったろうが、翁の主たる目的は成功されたものと私は考える。
スターリンは言っている「指導者は大衆より後れてはならぬが先んじても不可である。大衆と共に進まねばならぬ」と。時々金子さんは大衆に先んじ時勢の熟するを俟たずして進み過ぎた場合もあった。従って世間や政治が、金子さんの説を受入れないで笛吹けども踊らず、自分で焦慮しておられるようなことが多かったように思う。
すなわち、前にのべたような日本で人造絹糸の事業を創始したり、今は豊年製油となっている大豆のベンジン抽出法を満鉄が試験的にやってその大規模実行を躊躇しているのを、自ら先鞭を付けて断然工業化したり、硬化油工業が僅かに独逸、和蘭で成功しつつある際に専門家を欧州に派遣し、研究せしめて日本で最初にこれをやられた如き、その他大小の例は沢山あるが、その先見の明と実行力の強い事と果断である点において将に独歩の地位を我邦事業界に占められたといってよろしい。しかし、これらの事業も国家的には非常に役に立ったが、時世よりも一歩先んじすぎていたため自ら苦労されたことも多い。
このように金子翁は寝ても起きても事業の事のみに没頭し、世間の見る処は、人触るれば人を切り、馬触るれば馬を切ると言うような鋭いということばかりが知られているが、一面掬すべき温情豊かな気持ちを持っておられた。時利あらずして事業経営の上に非常な困難に際会した時でも案外余裕があった。そして常に得意の俳句をものしておられた。(抜粋)
「金子直吉遺芳集」(昭和47年1月1日発行、編集人:柳田義一[辰巳会本部])より
■長崎英造(鈴木商店東京探題、昭和石油社長、合同油脂グリセリン社長、産業復興公団総裁)
金子さんのことについては、私が東京におって政府、銀行、各商社、その他政治家等との交渉に関与し、また金子さんが上京されるといつも一緒に動いておったので、追懐すれば万感こもごもいたり、逸話を語れば限りがない。
私が一番記憶に焼きつけられておることは、米国大使館でモリス大使と日米船鉄交換の交渉をした時の金子さんの颯爽ぶりである。また、鈴木商店が第一の危機に当面した際、春の或る日曜日、金子さんが東京ステーションホテル二十号室に陣取って、ホテルの別室で開かれた台湾銀行重役陣の会議に出入する寸暇を盗み、便箋に「背水の陣屋を囲む桜かな」と書いて、そっと渡された余裕ぶりもまた忘れられぬ。
更に金子さんが米の輸出のことで某理財局長と、船舶の輸出について某管船局長と、鉄材の引取に関して某造船会社社長と交渉して、怒気満面、卓をたたき、大声叱呼して肉迫された勇猛にいたっては、それがいずれも喧嘩別れであっても、私があとから問題を解決するに便利な素地を作ってくれたのであって、追想するごとに感慨深きものがある。
私はこの頃、金子さんが若し生存しておられたら、この廃墟経済の再建に直面して何を言われるであろうかと考えて見ることがある。金子さんが平素論議し、または実行しておられたところから想像して見ると、金子さんは、おそらく第一に輸出工業が経済復興の支柱であることを力説して、豊富な経験と賢明な見通しと、卓越した企画性を発揮して沢山の構想と具体案を示されるであろう。(抜粋)
■賀集益蔵(鈴木商店経理担当、三菱レイヨン社長・会長、日本化学繊維協会会長)
私は当時鈴木商店経理部で金融業務を担当していたが、大正11年より12年の関東大震災以後の日本事業界は世界大戦時の好況反動と震災の影響から不況の一途を辿り、更に時の政府の緊縮政策が之に拍車をかけ、金融は極度に窮迫したので鈴木商店も金融の受難時代であった。私は連日金策に奔走したが、時には万策に窮する事があった。私も力に及ばぬ時は金子さんに相談すると、吾々金融担当の常識を超越した金策方法を授けられる。
昭和二年四月三日は鈴木商店死活の運命を決する吾々の記念すべき日であった。当日鉄道ホテル一室で午後八時上京中の私に、金子さんから直ぐ神戸へ帰って明四日一応銀行へ挨拶せよと命ぜられた。
私は吾々店員としてこの難局に処する心構えを質すと「御互に長生きして更生を計ろう。人生は波乱の一生である。得意の時に誇らず失意の時に落胆せぬ、これが人生行路の要諦である」と言われた。
回顧すると、嘗ては第一次大戦当時鈴木商店が国際貿易に雄飛してスエズ運河を通航する貨物の一割は鈴木の商品であると言われた隆盛期でも、金子さんの私生活は一店員同様で簡素なものであった。如何に豪華な宿で山海珍味でも又陋屋で粗食であっても、後でその感想を聞くと「うまかった。よかった」一言のみであった。金子さんが西郷隆盛の言辞の様に子孫の為に美田を買わず、一円の私貯金も一株の自己株も持たなかったのは私財に絶対無関心であったことの実證である。
次に金子さんは失望と落胆を知らぬ不撓不屈の精神の権化である。鈴木商店の整理当時私は金子さんの驥尾に付して東西各地の債権銀行へ三跪九拝して少額の弁済金で債務整理方を懇請し廻った。債権銀行では一笑に付せられたり、万言の愚痴を聞かされたり頭から叱り飛ばされたり随分苦難な仕事であったが、金子さんは少しも喜怒を色に顕さず万難屈せず、熱意と努力で一路整理に邁進して遂に之を完成したのである。某銀行の重役は私に「私の銀行の入口には金子さんや君の足跡の型が残っているでしょう。金子さんの熱と努力には負けました」といって整理に調印してくれた例もあった。如何なる難関に遭っても絶対に失望せぬ金子さんの精神は偉大にして崇高なものである。この滅私奉公の精神こそ衆人の師表である。
凡て金子さんの事業の対象は国家経済の確立と国民の福利増進であって利潤追求は第二次である。金子さんの創設した帝国人絹、神戸製鋼所、再製樟脳、合同油脂、大日本塩業、豊年製油等は凡て此の観点から発足している。鈴木商店の整理以来二十余年の星霜を経るも之等の事業会社が毅然として業界の代表的存在であるのは故人の事業観によるものであると思う。
昭和二年鈴木商店の整理当時、巷間には鈴木の事業の過大と非組織的運営を論及し、人事政策の不適正なりと誹謗する声を聞くが、之は金子さんの真髄を知らぬ凡俗の愚論である。若し鈴木商店が当時の政党政争の犠牲から免れ、金子さんの偉大なる事業計画を理解し、国家百年の国利民福を計る為政者が一人でもあったら、鈴木商店は更に国家に大きな貢献をしたであろうと思う。(抜粋)
以上、「柳田富士松伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より
■賀集益蔵
ただ翁の非凡で旺盛な産業開発の熱意に相応する資金策が追随し得なかった憾があると思うが、しかし翁自身の胸中には私利私欲の念は寸毫もなく、翁の事業は国家の経済と産業とを国際的水準にまで上昇させようとする念願から発したものと思う。現在、我が国の産業は世界に雄飛しているが、翁の遺した事業はこの繁栄の基盤となって貢献しているのであって、この事実は銘記すべきであろう。(抜粋)
■西川政一(鈴木商店小麦課、日商社長、日商岩井社長・会長、日本バレーボール協会会長)
翁の遺墨の筆勢は明治時代の風格躍如たるもので、その真心のこもった、真実に即する気持ちの表現はわれわれの心に迫るものあり、大いに学ぶべきところであります。第一次大戦中、当時のロンドン支店長高畑誠一氏宛の有名な長文の手紙の一節「三井三菱を圧倒するか、然らざるも彼等と並んで天下を三分するか・・・・」の勇渾なる筆致も茲に収められ、精巧なる写真技術で肉筆に迫るものがあることを信じております。
翁もし健在にして、昨今の日本経済新聞の名士の執筆による「私の履歴書」欄に寄稿されたら、今日の日本経済の基盤となる数々の物語が尽きないで、どんなにか多くの読者を魅了し、彼等に教うる所が多かったと思うのであります。(抜粋)
■久 琢磨(朝日新聞庶務部長、土佐証券副社長、大東流合気柔術免許皆伝)
日本経済は戦後急速に発展し、今やGNPは世界第二位となり、この調子で進行すればアメリカを凌いで近い将来に世界第一位になる可能性もあると米日の経済専門学者でさえ驚きかつ恐れているとも言われている。誠に心強い限りである。
この発展の真因は戦後米国の指導に従って米国をはじめ世界中の先進国から、あらゆる新工業技術をどしどし導入して各種の工業生産に全力を集中した賜である。(抜粋)
金子さんは半世紀も前から、「日本は国土が狭く、耕地が少ないから到底農業立国は出来ない。すべからく、各種の工業を盛んにして総生産額をあげ、この生産物を世界各国に輸出すべきである。勿論日本には資源が乏しく自給自足できないが、原料はどしどし輸入しこれを工業加工して付加価値を大にし、輸出して儲けるべきだ。尚海運を盛んにして、これらの輸出入品の運送に当らせる。空船にするのは損だから、世界中の商品の需給の流動を早くキャッチして、時には第三国間の貿易も進んでやるべきだ。即ち日本は工商立国で進むべきだ」と主張し時の政府にも進言して、自ら先頭に立って率先実行した、「政府がやるべきことを鈴木が代行しているんだ」、との自信の下にドシドシ拡張した。(抜粋)
以上、「金子直吉遺芳集」(昭和47年1月1日発行、編集人:柳田義一[辰巳会本部])より
■坂本 寿(日本発条社長・会長、横浜商工会議所副会頭、神奈川県産業教育振興連合会会長)
不自由な暮らしを続けていたせいか「出世さえすれば、スキ焼きを腹いっぱい食べて、サイダーを存分に飲める」と、ひそかに考えた。ぼくにとって、その夢がかなえられるのは鈴木商店しかなかったのである。
幸い大正十一年、ぼくは鈴木商店に入社した。ぼくの人生はここからスタートしたとってもよい。
関西で修行し横浜で旗揚げした時には「関西もんは賢くて、信用できない」と中傷を浴び、事業の上でも困難をきたしたことがあった。だが、鈴木商店出身だということで、ぼくは世間から思わぬ評価をされたのも事実である。
もし、あの時そのまま一流銀行へ入っていたら? 恐らく、ぼくの人生は変わっていたと思う。そして、もしスケールの大きな経営手腕を発揮した鈴木商店の大総帥、金子直吉先生の薫陶を仰ぐことがなかったら? ぼくは決して現在のような実業家にはなり得なかったはずだ。今でも金子直吉先生の名前を口にするたび、ぼくは正座をせずにはいられない。それほど畏敬の念が強い。
ぼくが今日あるのは、鈴木商店が実在したお蔭であると思う。鈴木の大番頭・金子直吉先生は結局、自分の造ったこの商社を自分の手で破たんさせたようなものだが、それでもぼくは今もって彼を偉大な実業家だと尊敬する。
数少なくなった鈴木の残党も、みな高齢者となっているが、そのだれもの心に金子直吉先生が生きつづけているのだ。こうした姿も珍しい。なぜなら、どこのだれが、すでに亡くなっていて、しかも、実業のタネを社会にまいたとはいえ姿をとどめずにいる会社の総帥のことを、いつまでも大きな存在として心にとめておくだろうか。
見方を変えるなら、経営者・金子直吉先生の偉大さがそこにある。死後もぼくたちに影響し続けた。このことが金子直吉先生の一番偉かったところであると、今のぼくはしみじみと考えるのだ。(抜粋)
「雲は流れる」(昭和61年5月20日発行、著者:坂本 寿、制作:神奈川新聞社出版局)より