金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ③「鈴木商店ゆかりの企業の幹部の言葉」

人の短所を見ず長所を見て登用、事業を残すとともに経営者・次代の後継者をも残す

浅田長平(神戸製鋼所社長・会長、日本鉄鋼協会会長)
翁は日々(きびす)を接して来る訪問者に対しては、如何に多忙な時でも寸時(すんじ)を割いて会見する。特に新聞記者などとも議論して談論風発(だんろんふうはつ)する。又時々経済に関する論文などを新聞の新年号などに寄書する。

又何事にも通暁(つうぎょう)している為め何人と対談しても話題に富み、飽くことを知らしめず、就中(なかんずく)理化学に関しては専門家と雖も往々驚く程の博識振りを発揮する為め、関係会社の技師連も自然迂闊(うかつ)な事を報告出来ず緊張精査するを常とした。

専売局長官だった濱口雄幸とは議論相手の好取組で自他共に許し、肝胆相照らした間柄である。明治四十一年頃金子が(とし)()僅かに四十三歳の時、桂首相や後藤新平伯と砂糖専売に()いて議論したものだ。

内閣では民間糖業家の意見を聞いて砂糖を専売にする方針であった。(もっと)も砂糖専売の事は大正年間にも大体専売とすることに意見が一致して、大正製糖の如きも政府に買収してもらうつもりで準備していたのだが、其の時期が待ち切れずして遂に没落したのである。金子は之が専売に適せぬ商品だと云うので終始反対意見を当路(とうろ)に献策していた。

大正十三年頃或問題で松岡洋右(ようすけ)氏を東京丸ビル二階の満鉄支社に訪問した。松岡氏も雄弁では天下に鳴らしたものであるが、座談にかけては金子翁の方が一枚上手だと見え、氏は三十分間程のべつ幕なしに論旨滔々(とうとう)たる説明と意見を述べたのに対し、流石(さすが)の松岡さんも一言の反駁(はんばく)もなく傾聴していた。(抜粋)
                (其の時翁の随行者 浅田長平氏談)

「金子直吉伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より


浅田長平
次に大正十三年頃の事でありますが、前の外務大臣松岡洋右(ようすけ)氏(当時満鉄理事)に或る問題で東京丸ビル二階の満鉄支社に()いに行かれた(当時金子さんはステーションホテル二十号室に居られた)。私は御供をして行き横で御二人の話を聞いて居りましたが、金子さんの論旨滔々(とうとう)たる説明と御意見に対し流石(さすが)の松岡さんも一言の反駁もなく傾聴されていたが、前ヨーロッパ大戦当時の船鉄交換問題に於ける金子さんの御活動を想起して、その明晰なる頭脳と相手を説伏せしめる金子さん独特の交渉ぶりには全く敬服した次第であります。

私の大恩人であり大先輩である金子さんに対し斯様(かよう)な批評は誠に僭越(せんえつ)でありますが、事業家としては勿論大人物であったが、政治、外交に対しても非常に卓越した識見と手腕を持っておられた。()し金子さんが政治家、外交官として進出してその天分を充分発揮して居られたら、日本も今日この様な惨めな目に逢わなかったと思い実に感慨無量です。(抜粋)

「柳田富士松伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より


金子(さん)
次郎(じろう)(沖見初炭鉱鉄道専務取締役、羽幌炭砿鉄道専務取締役、樺太ツンドラ工業専務取締役)
翁は「腕の金子」と云われた半面に勤倹(きんけん)力行(りきこう)家で又仁義に篤い人で、決して人の恨みを買うことはしなかった。昔鈴木商店で帝国燐寸(まっち)会社なるものを創立したことがある。瀧川儀作が早速金子翁を訪問して、鈴木が燐寸を始められては之を向うに廻して闘う事は到底出来ない。皆ヤラレル、全滅して(しま)う。何とか燐寸から手を引いて呉れろと頼みに行った。

金子翁は答えて曰く、「之は驚いた。人の商売をやるのを止めろとは始めて聞いた。不思議な註文だ。(わし)は瀧川さんも直木さんも幾ら頼んでもマッチを売って呉れないから始めたので、決して迷惑になる様な競争は致しませんからご安心下さい」と云う。

瀧川氏は「イヤそうは云わさぬ、貴方が暴れ出したら吾々は一タマリもなく倒れて仕舞う。燐寸は大阪の井上、神戸の直木や私の父等が数十年かかって幾多苦心惨憺(さんたん)の結果築きあげた我国重要物産の一であるから、此の連中の功労に免じて(たす)けて貰い度い」と懇請した処翁は曰く、随分無理な話ですね! と暫く黙考していたが、稍々(やや)あって「然らば僕の作った帝国燐寸を引受けて呉れますか、今一つ僕の註文する通りに燐寸を作って呉れますか」の二条件を持ち出した。

瀧川君は翁を向うに廻して(ひと)(くだ)ぎに合うよりはと二ツ返事で快諾したので、アーソウ、アーソウと云うので三十分間の後問題が片付き、帝国燐寸を吸収合併せしめ鈴木の直営を止めて大株主として東洋燐寸会社が新発足したのであるが、以来金子翁は何等の干渉もせず経営一切を瀧川君に一任していた。

之なども実業家の仁義であり、孫子の謂う「不戦而屈人之兵乃善之善者也」に当る。

又大里製糖所を日糖に売付けた頃、鈴木としては直接製糖事業をやらぬと云う口約(こうやく)があるので、後年台湾北港区域に(ぶん)(みつ)工場許可を受けたが、時の大島長官に対し、「鈴木としてはやらぬ。株式会社なれば御受けする」と電報を打ったことなども(平高寅太郎談)良く実業道徳を守った一例である。

翁はよく(じっ)(きん)者を(いまし)めて「他人の持っている茶碗を叩き落す様な事をしてはいけない」と云ったのは此辺の意味であろう。(抜粋)

「金子直吉伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より


久村(くむら)(せい)()(帝国人造絹糸社長・会長、日本化学繊維協会会長)
死んだ「ナメクジ」が石の上で乾いて角のようになっているのを見て、ビスコースに「ナメクジ」を入れろと提案される。又ビスコースに高周波をかけろといわれる。どういう理屈かを聞いてみると、理屈なしの神がかりである。又人絹の水分を増して目方を増やして売出せとか、コンベヤーを用いて紡糸以後の工程を全部自動装置にせよとか、豪州の小麦を包むブリキ板の代用品をビスコースで造れとか、実現の困難な独創的新案がいくらでも出てくる。

金子さんは碁やゴルフ、ダンスや酒を飲むことは大嫌いであった。事業や金儲けの対象にならない事柄は、事業欲の旺盛な人には馬鹿々々しく思われたかもしれない。金子さんが亡くなられても、創始された事業は残っている。聡明なる且つ大胆なる事業家としての金子さんは偉かったが、同時に自分の生活には極めて恬淡(てんたん)で、何等の私財を造ろうともしなかった点が、偉大なる事業家の半面として超凡の風格を備えたものと思われる。(抜粋)


田宮()右衛()(もん)(神戸製鋼所社長、播磨造船所社長・会長)
金子さんは無欲恬淡(てんたん)で、稀に見る私心のない方であった。鈴木商店は世界的にあらゆる商品を取扱った大商社であり、殊に事業方面にては製糖、樟脳、薄荷、製鋼、造船、人絹、運輸、製粉、製塩、製油その他あらゆる製造工業を営んだものである。之等が総て金子翁の事業欲から出て、それが翁の趣味となり道楽でもあった。だから時には盲目的と思われる位迄に猛進されたこともあったと思う。

金子さんの先見の明には感服に堪えぬ、(しこう)して大胆で又極めて意志の強固な方であった。その意志の強いということが大なる教訓になり、一面又大変困ったこともあり、こっぴどく叱られたこともあった。翁は何事を尋ねても必ず意見を持っておられた。(抜粋)


杉山金太郎(豊年製油社長)
金子氏のような経済、政治、その他(あら)ゆる方面に達観せる意見を持っておられた人は仮に政治家になられたならば必ず総理大臣に、()し又軍人になられたならば必ず大将、元帥(げんすい)になられ、如何なる方面に向かわれても国家の為大いに貢献せられる人であろうと考えたのであります。

金子さんには一つの持病がある。それは煙突病という病気で、技術者から色々の事業計画を進言せられると直にその事業をやってみたい気持ちになって、工場を建設し煙突を建てるために所謂煙突病なる名前を付けられたのであるそうです。(抜粋)


(みなと)(播磨造船所、鳥羽造船所、神戸製鋼所、クロード式窒素工業等鈴木商店関係会社の重役)
さて金子氏の光輝(こうき)ある業績の内に船鉄交換問題がある。是又自家の利害よりも寧ろ国家的観念から身魂(しんこん)を傾注し奔走された。或日鉄道ホテルの例の二十号室で最早来客もない夕食後の閑談で、米国は鋼材を持って居るが、造船の方は余り盛んでないから鋼材を輸入し船を造って米国へ売戻す事にすれば有無相通ずる訳であると話した処、それは良い着想だ、考えてみようと云われた。()の後二三日を経て神戸に帰られ東京での鋼材の話を文書にして見よと命ぜられ、半紙二枚に意見書を作成提示した。

(しこうし)して其の夜再び上京した。その日は吾人(ごじん)が忘れんとして忘れることの出来ない鈴木商店が焼打ちされた日であった。街では今夜鈴木が焼打ちされると専ら評判して居ったので一日延ばされたがよいと勧めたが、警察側の内報は大丈夫と云うので遂に上京されたが名古屋から引返されたと思う。

其の後大隈侯や商業会議所会頭郷男、文豪徳富蘇峰などを動かし東奔西走全力を傾注して尽力され、其の間先代の浅野総一郎氏が東洋汽船の関係で米国とは親しみ深く、且つその息子が米国に留学し会話が自由に出来ると云うので交渉に当った時もあるが不成功に終り、再び金子氏の奮起を煩わし遂に米国駐日大使を説服して日米船鉄交換の商議が成立し、この金子氏の余徳(よとく)が、我国の各造船所に鉄飢餓の(うれい)を一掃するに至った。是により我国の大中造船所は意外に早く材料を十分に入手し、終戦後も尚此の割安な輸入資材で造船を継続し、戦後の打撃を蒙ること極めて軽微でパニックに襲われても大中造船所のみは微動だにしなかった。

因に云う。此の困難な交渉は既に霞ヶ関の職業外交官に於て失敗し、又逓信省よりの交渉も失敗に終り、造船所及び我国の鉄工業者は之が善後策に沈淪(ちんりん)していたのであるが、偶々金子氏の決起により此の輝かしき民間外交は勝利となった。その功績は相当高く評価せられ、官より正六位に叙せられたのである。是全く金子其の人の偉大にして他の追随を許さざる手腕と努力の賜である事を深く銘記し感謝すべきである。

(かか)る燦然たる幾多の業績にも拘らず、時代の推移に抗し難く痛恨極りなき鈴木商店没落の日か終に来た。()の後十数年間、金子老の悪戦苦闘は涙なく語ることは出来ないが、苦難時代の半時でもその念頭から鈴木商店復興の念願を払拭する事は出来なかったと思う。

然らば何を根拠として復興する積りであったかを想うに、()れは羽幌炭田の開発であった。此の事は度々聞かされた事であり、恐らく夫れは真意であったと思う。(もっと)も炭砿経営といっても一般に行われて居る様な石炭を掘って其の(まま)市場に売り飛ばす様なものではなく、羽幌炭の特質を利用し石炭液化事業を起し、日本に最も必要な揮発油を生産する処迄持って行く積りであった事は、築別川の下流海岸沿って広い土地を買収して其の準備のおさおさ怠りなかった事からも想像出来る。

されど、今日の敗戦国家としては、仮に金子老が百年の天寿を全うして居られても此念願は実現し得ざる悲しむべき時勢になった。()れにしても羽幌の現状は故人の期待に背く事余りに遠く、此事業に直接関係する吾人(ごじん)は尊霊に対し申訳なき次第である。(ここ)に謹みて御詫びして擱筆(かくひつ)する。(抜粋)


小川実三郎(日輪ゴム工業社長、日商監査役)
翁はそれが(いやし)も国家社会に有益、有意義と見たら、どんな陋屋(ろうおく)の卑近な仕事でも、大事業に対すると少しも変らない熱意を以て之が育成に日夜()まざる努力を続けられる。成程国家的には極めて有意義な仕事に違いないが、こんなことで果してものになるかと思われる様な小規模でも一向意に介されない。(しか)もその胸中意図せらるる所たるや実に遠大で、常に前途洋々たる大発展を期待確信せられておった。こういう場合、翁は口癖の様に「今にみとってみい」(見ておれ! 自分の意図する所が如何に達成されるかを)を繰返されるのである。

昨今誰か夢なきという言葉が盛んに使われるが翁の場合は夢などという生優しいものでなく、実に堂々大理想を実現せずんば止まざる意気が燃えておった。()(おう)(ナポレオン)の辞書には不可能という文字が無かったと言われるが、金子翁のそれには更に失望、落胆の二語も見出されなかったが、翁は窮地に入れば入る程勇気百倍、勇往(ゆうおう)邁進(まいしん)される。然もその間和歌、俳句を作り、詩想に(ふけ)るという余裕綽々(しゃくしゃく)たる境地さえ持っておられたのである。(抜粋)


小野三郎(帝人製機社長)
金子さんには所謂道楽がなかった様である。唯一つ之は道楽といっては当らぬかもしれぬが、学生を養って楽しむということであった。金子さんの世話になって大学や専門学校を出た人で、私の知っている人だけでも二十数名はいる。私もその一人で、常に数名の者が養われていた。暑中休暇などには各地から金子さんの膝下(しっか)に集って須磨一の谷の邸には(あたか)梁山泊(りょうざんぱく)の観があった。

そういう時は、金子さんは慈父の如き温顔(おんがん)を以て私共を迎え、或時は共に海水浴に浸り、或時は砂上で私共に相撲をとらせ打興ぜられた事もあった。金子さんの学生養成法は常人と異なり、勉強せよとか人をして監督させるとか一切せず、全く放任主義で各人の進路についても自由だった。技術、経済、法律等己が好む所に向わせて一切干渉しなかった。

金子さんは又、必ずしも秀才ばかり養成したのではなく、向学心に燃えている人、家庭の事情で進学出来ぬ人には惜気もなく学費萬端(ばんたん)世話をする。(しこう)して、その酬いを一向求めない。多くの人の中には落第した人もあったが、一言も小言を言った事を聞かない。又中途で背いて挫折した人もいたが、一向之を(とが)めないのみならず、再び悔いて戻って来れば迎えて面倒を見る。聖人にあらずんば慈父かでなければ出来ない大雅量(がりょう)があった。

金子さんは又、養成した学生が学窓を出た後も不絶(たえず)、慈父の如く陰になりその将来を気遣っておられた。(かつ)て鈴木が没落した当時、山科の隠れ家とも称された木挽(こびき)(ちょう)の小松家の別館(裏長屋)に蟄居(ちっきょ)しておられた。私は或る雪の夜、その寓居を訪れた時、偶々御不在故暫く待っていると(やが)て外套の雪を払われて寒空に帰られた。今頃どちらへと御尋ねすると「橋本が多くの家族を擁しているから、今三菱の重役に就職を頼んで来た」と聞いた時、この雪の夜に(しか)も御自身は当時四面楚歌の声の中に在り、鈴木再興の為め寧日(ねいじつ)無き身でありながら、曾て自身の養った一書生の一身上の事迄思い煩わるるかと思うと熱い涙が止め度なく出た。(橋本君とは神戸商大出、現太陽産業の常務)

()く金子さんは、明治、大正、昭和を通じ経済界に偉大な足跡を残されたが、同時に多くの後輩や子弟の中に不滅の金子魂を残された。それが今尚私達後輩の血管に脈々として流れ生きて働いて居る。(抜粋)

以上、「柳田富士松伝」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より 


小野三郎 
今一見逃せない偉大なる点は、翁は人の長所を見抜く(けい)(がん)を有せられ、()(その)人に長所あらば老若、学歴などを問わずドシドシ之を起用登用し其才能を遺憾なく発揮せしめ、適材を適所におき人材を養成し、又翁の事業に対する信念と迫力が接触する周囲の人々を揺り動かし之を感化し、其種子を各事業界に蒔かれ、()れが各方面で実を結んだ観があります。

従って翁は事業を残すと共に其経営者をも残され、次代の後継者をも残した処に翁の翁たる偉大さがあると思います。其証左(しょうさ)は昭和二年鈴木商店破綻の際、扶持(ふち)を離れた多くの士は或は政界或は個人経営或は残存企業に入り成功せられ、今尚政界財界に重きをなす方々の数は枚挙に(いとま)がない有様であります。(抜粋)

「金子直吉遺芳集」(昭和47年1月1日発行、編集人:柳田義一 [辰巳会本部])より


大屋晋三(帝国人造絹糸社長、商工大臣、運輸大臣)
後年になって初めて気づいたのだが、金子さんが特に私に話を向けたのは、単なる好奇心ではなかった。金子さんは私が仕事をしていた世間からの関心の薄い地方に、こちらから売り込めるもの、向こうから引いてこれるものは何かないか、せんじつめれば何かボロイ仕事はないかと、質問を集中していたのである。

要するに私が商売に役立つ新知識を持っていないかと、鈴木の事業に結びつけて聞いていたのであった。金子さんはそういう席でも鈴木の事業に主眼を置き、事実そのものに重点を置いて、一介白面の青年などということは意にも介さず、自分の知らない土地にいた私から新知識を吸収しようとしたのである。

金子さんはその人の地位とか人柄とか尊卑とかは問題とせず、事実 ― ファクトを目標とした。その人の持つ知識、能力を目標としたのである。こうして能力さえあれば若い青年社員でも海外至るところに派遣して、そのリポートによって自分が陣頭に立って仕事をしたのである。

鈴木商店は第一次大戦中に急激に膨張した会社である。従って戦国時代に大名が(こぞ)って野に遺賢(いけん)を求めたように、金子さんは何か特徴のある人ならどんな人でも構わずに集めた。その人の出身、縁辺(えんぺん)などは一切問題にせず、その人に特徴さえあればこれを重要視した。そして人の短所を見ずその長所を採った。こうして鈴木には無名の人材が多数集まったのである。金子さんはこのように事実 ― ファクトを重視したが、その点は実にハッキリしたものであった。(抜粋)

「松方・金子物語」(昭和35年6月1日発行、著者:藤本光城、発行:竹内重一)より


■大屋晋三
神戸の本店に帰って二・三日すると、金子さんが長崎料理の宝家で歓迎の宴を張り、若輩の私も末席に連なることを許されて大いに感激したものである。

ところが驚いたことには、その席で金子さんは芳川・日高の両先輩を差しおいて、専ら話題をまだ二十台の若僧の私に向け、私が商用で飛び廻っていたエジプト、トルコ、ギリシャ、レバノンなどの地方の事情を実に根堀り葉堀り聞いたものであった。私は恥ずかしながら、この時は金子さんの気持ちがつかめず、ありきたりの好奇心から質問が集中するくらいに思ってその地方の人情・気候などについて通り一編の対応をしていた。

ところで、後年になって気がついたことなのだが、この時金子さんは当時日本にあまり知られていなかったその地方に何か日本に引いてこられるものがないか、またそこに売り込めるものはないか、要するに何かうまい儲け仕事はないかと、私を通じて知識を吸収しようとしていたのであった。

金子さんという人はそういう人柄で、普通の人なら私など取るにも足らぬ小僧なのだから、話を先輩の二人に向けて一応の外国の事情などでお茶を濁すのが常である。しかし、金子さんはそんな席でも重点を鈴木の事業に置いて、比較的に未知の地方にいた私が何か役立つ新知識を持ってはいないかと、『事実』(ファクト)に重点を置いて、一介白面の青二才などということは頭から問題にしなかったのである。

金子さんの生涯を通じての行動を見ると、西郷南洲は「人を対手とせず、天を対手とせよ」と言ったが、金子さんはその人の地位とか人柄とか尊卑とかは対手にせず、専ら「事実」(ファクト)を目標とした。そして、若僧であろうと小僧上がりであろうと、能力さえあるならばこれを重用し、さらに能力に応じては海外至るところにも派遣して、その報告に基づいて自分で仕事をしたのであった。

鈴木商店は第一次大戦中に急速に拡大発展した。そこで戦国の大名が(こぞ)って野に遺賢(いけん)を求めたように、何か特徴のある人間をしきりに集めた。その際に人の短所を見ず、その長所を見出そうとし、何か特徴のある人はこれを大いに重用した。

こうして鈴木商店には無名の人材が続々と集まり、これをその持つ能力、即ちその持つ「事実」に応じて駆使し、いろいろの先駆者的な事業を次から次へと創設していったのであった。(抜粋)

たつみ 第7号(昭和42年9月1日発行、編集人:柳田義一 辰巳会本部)より


■大屋晋三
この鈴木商店では不世出の実業家の偉人金子翁が全従業員から太陽の如くに仰がれ、満腔の信頼を受けていたが、全く文字通り太陽のような存在で、われわれ駈け出しの新入社員などはとてもこれに接近する機会はなかった。それを私だけは不思議な縁で、比較的に早くから何回か金子さんに接することができて、その度に常人と遥かに隔たる偉大さをつくづく感じさせられたものであった。

最初に金子さんと直接に交渉があったのは、上海の楊樹(ようじゅ)()の樟脳工場の評価についてであった。私が鈴木に入る二カ月ほど前に鈴木、三井、藤沢ほかの樟脳メーカーが合併して「日本樟脳株式会社」を設立し鈴木が最大の株主になっていたが、楊樹浦の工場をここに移管するのについて、これの評価を私が担当することとなった。

本店の樟脳薄荷部に移って暫くたってからと思うが、私はそのために上海に出張してこの工場の評価をしたのだが、その時私は清水の舞台から飛び降りる位の気持ちで実際の価格の倍程度に査定した。

これを若干後ろめたい気持ちで金子さんに報告したところ、驚いたことには金子さんは「そんなことではとても問題にはならん」と言って、なんと十倍もの評価をして私を文字通り唖然とさせた。その時はいわゆる度肝を抜かれて驚いたのに止まったが、その後いろいろと商売の経験を積むにつれ、やはりこれ位の大胆奔放さがないと商取引の実際の駈引きはできないと悟ったものであった。

また、この金子さんは大胆奔放であるとともに頭の回転の実に早い人であった。大正九年三月の第一次大戦の反動恐慌後、まだあまり時がたたない頃だと思うが、あるとき主任の楠瀬さんに代って報告に行き、隣室に待たされたことがある。

この時の恐慌は物価が四割も下がったほどに大きなもので、鈴木商店も手持商品の値下がりで大きな損失を(こうむ)り、その内幕はすでに火の車であった。ちょうど銀行の支配人らしい人が来ていて、金融面でいろいろと難詰(なんきつ)していた。これに対して金子さんは別に悪びれている風はないが、丁重に辞を低うして百方陳弁(ちんべん)これつとめていた。

この銀行家が帰ると、次に新聞か雑誌かの経済関係の記者が来た。すると金子さんは先のことなどはどこ吹く風というように、「なあに、この反動の損失などは今やっているジャバ糖の取引で償って余りあるものだ」などと大風呂敷を広げて対手を煙に巻いていた。正に陰の極から陽の極へ一足飛びの転換である。

次に来たのは金子さんの旧友で、子供の就職依頼であったように思う。会社が危急の秋だから大抵の人なら秘書あたりにまかせるところを、金子さんはいと懐かしげに、また屈託なげに子供の頃の昔話に(ふけ)って嬉々として楽しそうであった。

続いて店の主任連中が緊急の決裁を受けに入ってきたが、これに対して金子さんは、その多くの事項についてテキパキと次々に指図を下していた。これが小一時間ほど待たされている間に私がドア越しに盗み聞きした出来事である。

後になって私自身がそういう立場になって、この時のことを思い出してはつくづく金子さんの偉大さを追想した。大きな事業をしようとする人は、一つのことに囚われることなく多くのことを一つ一つ、それぞれ物ごとに応じてケース・バイ・ケースに処理できなくては大を成すことはできない。

たとえ大きな損失を蒙って事業の心棒が揺らいでいるような時でも一友人からの些細な依頼をも、これを丁寧に扱えるだけの心の余裕がなくてはいけない。私はこれまでの五十年に近い実業界の生活の間に、いろいろのことを経験している。しかし金子さんのように諸般の事柄を、それぞれ物事に応じて一つ一つテキパキと処理して行くことは、事業が順調に進んでいる時はとも角、逆境の時にはなかなかできない。

後に聞いたところでは、金子さんは鈴木商店破綻の時でも、最後まで悠々たる態度を崩さなかったそうだし、またいつも「人間得意の時に有頂天になり、失意の時に消気返るほどみっともないことはない」とも言っておられたという。私が金子さんに学ばねばならぬと思っている大きな教訓の一つがこれである。(抜粋)

たつみ 第7号(昭和42年9月1日発行、編集人:柳田義一 辰巳会本部)より


大屋晋三
私は先にも私の一生を決定したのは鈴木商店であると言ったが、これはひとえに偉大なる金子直吉翁の感化である。金子さんが鈴木商店を潰したことから、これについてと角の論をなす人があるが、私をしていわしむるならば、「その人の評価を決するものは、その成敗に非ずして事業である。」

現在でも金子さんの残した事業の中で、実業界の第一線で華々しく活躍しているものは十幾つもあるが、これだけの事業を残した人がこれまでに果して何人あったであろうか。福沢桃介は「同じ土佐の出身であるが、金子直吉の方が三菱の岩崎弥太郎より偉い」と大三菱の創始者岩崎弥太郎以上に買っている。

船鉄交換で金子さんと折衝した駐日アメリカ大使モリスは「金子こそは駐米日本大使として欲しい人だ」と言った。その頃のアメリカ大使といえば外務大臣に匹敵する、場合によればその経験者の行く地位であった。

金子さんの残した事業の中には、空中窒素の固定による硫安の製造、人造絹糸の製造、民間事業としてのディーゼルエンジンの製作など、当時の日本としては前人未到の大事業がある。まことに不世出の大人物で、恐らくはこれほどの偉大な実業人は百年に一度も出ないのではなかろうか。少なくとも私の直接に交渉のあった実業人では、金子さんほどの人に出会ったことはない。

偉大なる金子さん、これに指導された偉大なる鈴木商店の自由奔放な経営、ここに一度でも勤めた人にとっては、その記憶は永遠に消えぬ懐かしいものであろう。その印象は、年を経るごとに却って鮮明になるものであろう。

この辰巳会の会員は年々才々その人は減るのみである。しかるに、その会合は才々年々盛んになるのみである。これは偉大なる金子翁と鈴木商店への追懐(ついかい)が年を経るに従って却って深まって行くからであると思う。世のいわゆる去るものは日々に(うと)しとは全くの正反対である。(抜粋)

たつみ 第7号(昭和42年9月1日発行、編集人:柳田義一 辰巳会本部)より


大屋晋三
私は人間が野心的でまたある程度ズボラなところもある。それで当時の学生が志望した三井、三菱、住友、古河などの財閥会社や日本銀行、日本郵船、正金銀行、大阪商船等々のように、すでに秀才も集まり基礎が固まり、型にはまった窮屈なところには行きたくなかった。何かまだ完全に出来上がらぬ、これからという新興のよい会社はないものかと物色していた。

すると実業之日本に鈴木商店の紹介が出ていた。これは本店が神戸で、ここの主人は女で番頭に直吉という傑物がいて切って回している。海外貿易に進出して大いに躍進するのみならず、内地でも各種の事業に手を伸ばし、その関係会社は百二、三十にも達してまさに日の出の勢いである。このほかに神戸には新興の会社として湯浅その他があるが、とても鈴木にはおよばないと記してあった。私はそこで「ははあ、オレの行くところはここだな」と即座に思った。

三菱志望の級友中本省三が鈴木の人事主任西村政雄を知っていたので、中本から手紙を出してもらって「鈴木は一ツ橋からほとんど人を取らず、また申込もないが、もし一ツ橋から取る気があるなら、私があっせん役になって何十人でも取りまとめてやろう」と申入れた。二つ返事で承諾してきたので、このむねを学内に掲示して希望者をつのると四十名ほどの申込があった。

結局はこの中から約三十名が、私が世話役になって神戸に行って試験を受けた。この時、どういう関係でか、全員合格したなかで高橋彌男だけが一人落ちた。私は十二月、高橋と二人で神戸に出かけ、西村人事主任に会ってその不当をなじって高橋を採用させた。その時二人はなけなしの財布をはたいて汽車賃や宿賃を払っているのに、人事主任はその費用を支弁してくれない。「なんという気のきかない人事主任だろう」と思ったものだ。後年この西村を私の会社に嘱託として採用した。

鈴木商店は私の期待に背かなかった。新興の会社だけにすべてが自由で積極的である。躍進途上の会社なのでまだ人もそろわず、したがって新入社員といえども十分に腕をふるう機会が与えられた。

私は入社して間もなく樟脳部に入り、樟脳と薄荷の取引に当ったが、これは当時おもしろいほどもうかる商売だった。私の責任で一日に当時の金で百万円(現在の数億円)もの取引をしたこともあるし、薄荷の建値を一日の間に七十円から百円もつりあげたこともある。第一次大戦末期の好況期ではあったが、既成の会社だったら学校出の若僧にこんなに大きな権限は与えなかっただろう。

「私の履歴書」(昭和33年8月25日発行、編者:日本経済新聞社)より


橋本隆正(太陽鉱工専務取締役)
私は十九の年から、翁ご夫妻に育まれ、鈴木の食を喰みつつ翁の最後の日まで、親しく薫陶を受けて来たが、その間、奇行や奇語は一度も見分しなかった。逸話が多いためか、世上では金子は奇人だとよくいわれるが、それはまた縹眇ひょうびょうたる風貌や無頓着な服装からくる皮相ひそうの見方からでもあろうか。

翁は実に慕わしく、親しみやすく、思いやり深い、真に人間らしい慈父であった。

翁は情愛に厚いだけでなく、情操もまた人に優れて豊かであった。世間では金子は事業一点張りのようにいわれるが、そうではない。鈴木破綻の後も死に至るまで東奔西走、全盛時代と少しも変らぬ活躍を続け、仕事から離れるのはいつも夜遅くなった。夕食後はよく元町通りや生田筋の骨董店へ散歩をするのが楽しみであった。絵は古今東西を問わず、浮世絵から大津絵、版画、拓本に至るまでゆくとして鑑賞批判せざるはない有様であった。

書は詩でも、歌でも、漢文でも、一見たちどころに読下す教養が不思議と身についていた。陶磁器から土器、石器、漆器、鋳金、木彫に至るまで鑑賞の広さと眼力の鋭さにはしばしば驚嘆したことである。俳句は当意即妙(とういそくみょう)溌溂(はつらつ)として実感が溢れている。遺された数々の秀作は実に達人の芸である。

翁が蓋世(がいせい)の大事業家であったことは、自ら経営した七十社に余る鈴木の事業と、雲の如く輩出した部下の人材を見れば誰しも異存はないはずである。(抜粋)

「金子直吉遺芳集」(昭和47年1月1日発行、編集人:柳田義一 [辰巳会本部])より


北村徳太郎(播磨造船所支配人、佐世保商業銀行(現・親和銀行)頭取、運輸大臣、大蔵大臣)
指揮というよりも、(金子は)こっちが指図してもらわんと困るときに行くだけで、非常に大まかな見方でした。そのかわり人間は厳選するわけです。こいつにまかせていいと思えばいっさいまかせる。思うようにやれということで、一々報告を出させて目を通してということはしないです。たまに行って現状を報告すると何もいわない。よかった、よかったということで。

そういう点で妙な笑い話があるのですが、北海道で若い十代の人が、ひそかに思惑をしまして、大きい穴を開けた。支店長が恐縮して本人を連れて、あやまりに来たのです。そうしたら金子が「君か、もうやるなよ」、それだけしかいわなかった。「きさまのようなやつは」といって叱られるかと思ったのですが。そういうところは変わっていました。それがまた若い者がほんとうに熱心に働いたゆえんだと思うのですね。人の使い方を知っていた。人を見る目があったし、その点は面白いです。

もう一つは私心がなかった。自分はせいたくをしない。雨の漏る家におったのですから、奥さんが、どうもあっちこっち雨が漏って困るといったら「女というものは気が小さくて困る。家は広いのだから、雨の漏らんところもたくさんあるじゃないか。そこにおればいいじゃないか。そんなことをいってくるとはなにごとだ」といって、奥さんがどなられたという。

結果は鈴木商店というものはつぶれましたけれども、金子の人物養成というものは間違っていなかった。だから日本の各界に人間をそうとう出した。鈴木商店のような、ああいう妙な行儀作法も心得ないようなところから、戦後大臣が数人も出ております。これは珍しい例だと思います。

金子は、まあ私心のなかった人で、実に純粋で私欲というものがなかった。ご存知のとおり汚い服を着て住居もひどいところでした。それからもう一つは、ずいぶん関係会社が多かったけれども、一つも重役になっていないのです。監査役というものをいっさいやらなかった。何も関係しない。相談役とか顧問とかいっさいやらない。いろいろ相談はうけるけれども、非常に簡素な生活をしながら往生したという点ですね。

後進にもそれは無言の教訓を与えている。彼はぜいたくをしなかったし、わがままをしなかった。実に簡素な生活で、そうしてずいぶん学生を置いておりまして、よくやった人です。鈴木商店は崩壊しても、そこから発生してあっちこっちに飛んだ飛火が、それぞれ鈴木商店全盛の時代に劣らないくらいの力を発揮している。その一つは金子が人物を見たということと、一つは金子自身に私心がなかったということ。別荘を建てるとか、ぜいたくするということを絶対にしなかった男ですから、そこに一つ人的に締めるものがあったのじゃないかと思います。(抜粋)

「昭和経済史への証言」(昭和41年11月発行、編著者:安藤良雄、発行:毎日新聞社)より

金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ④「各界人の言葉」

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  • 浅田長平

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