金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ⑤「鈴木商店研究者の言葉」

私利私欲の影がない、卓越した創造的企業者の資質をそなえた有能な企業経営者

桂 芳男(神戸大学教授、経済学博士)
◯事業家金子の評価
金子は政治献金という行為と結びつかないほど、私生活は潔癖であった。ある高名な評論家も「金子の私生活の端正さは財界人としては稀有の人格者」と評している。金子の私利私欲は皆無であったといってよかった。彼の欲とは天下無類の事業欲でしかなかった。

ところで、事業家としての金子直吉は全体としてはどのように評価されるべきであろうか。フリッツ・レードリッヒによれば、卓越した創造的企業経営者は通常型の「すぐれた企業経営者(good entrepreneur)であるとは限らない。たとえば、ドイツのフリードリッヒ・ハーコートやアメリカのレオニダス・マーリットのように、この種のタイプの創造的企業経営者は、企業を破綻へと導くのである。

このモデルは基本的には金子のケースにもあてはまるように思われるのである。金子は、ロマン型志向のエンパイヤー・ビルダー型の企業経営者であった。それで、彼は合理的な組織と計数に基づく近代的な経営管理体制に対応できなかった。

かくして、企業レベルの観点からすれば、現実に鈴木商店を倒産へ導いた金子は、もはや通常型のすぐれた企業経営者であったとはいえないのである。その意味では金子は完全なる失敗者であり、「敗軍の将」そのものであった。

しかし、国民経済レベルの観点からすれば、評価はまったく異なってくるのである。その意味では、彼はまさに卓越した創造的企業者の資質をそなえた有能な企業経営者であったといわねばならないのである。後者の観点に限定するかぎり金子は成功者でもあり、大いなる先駆者でもあった。(抜粋)

◯活躍する鈴木系企業と人材
鈴木は倒れたが、日本の国益にマッチした新産業や有為な数多の企業と豊富な企業経営者資源を残した。大屋晋三の座右の銘に、「その人の評価を決するものは、その成敗に非ずして、事業である」というのがある。

これほど金子を讃えるつぼをついた表現はないであろう。福沢桃介も土佐出身の財界二大偉人として、幸田露伴のいう「営為を事とする人間」類型にともに属する金子と岩崎弥太郎をとりあげ、金子を大三菱の創始者岩崎より高く評価し、そのうえで金子を「我財界に於るナポレオンに比すべき英雄」と称している。(「財界人物我観」)

その後の政財界で活躍した鈴木の人びとのごく一部を挙げれば、つぎのようである。

長崎英造(産業復興公団総裁)、金光庸夫(つねお)(衆議院副議長・厚生・拓務大臣など歴任)、久村(くむら)(せい)()(帝国人造絹糸会長)、秦逸三(はたいつぞう)(第二帝国人造絹糸社長)、高畑誠一(日商会長・播磨造船所会長・太陽鉱工会長)、永井幸太郎(日商社長・貿易庁長官)、田宮嘉右衛門(神戸製鋼所社長・播磨造船所会長)、浅田長平(神戸製鋼所会長・神戸商工会議所会頭)、賀集(かじゅう)益蔵(えきぞう)(三菱レイヨン会長)、北村徳太郎(運輸・大蔵大臣歴任・日ソ東欧貿易会会長)、住田(すみた)正一(しょういち)(東京都副知事・呉造船所社長)、杉山金太郎(豊年製油会長)、大屋晋三(帝人社長・大蔵。商工・運輸大臣など歴任)、竹田儀一(神鋼商事社長・厚生大臣など歴任)、横尾(しげみ)(播磨造船所社長・通産大臣など歴任)、西川政一(まさいち)(日商岩井社長・日本バレーボール協会会長)、坂本寿(ひさし)(日本発条会長・神奈川県経済同友会代表幹事)の諸氏がいる。(抜粋)

「総合商社の源流 鈴木商店」(昭和52年11月28日発行、著者:桂 芳男、発行:日経新書)より


大塚 (とおる)(元NHK記者・元神戸大学非常勤講師・鈴木商店記念館監修)()

◯私利私欲のない"きれいな倒産"だった
石油ショック以降の大不況は昭和恐慌に似ていると思われた。安宅産業、興人、永大産業 ・・・・ 大型倒産、大量失業が続出するなかで倒産のしかたが気になった。あまりにもオーナー、経営者の企業の私物化が目立ち、取引先の迷惑をかえりみないだけでなく、日ごろ企業を支えていた従業員への配慮の不足が目立った。まさに"倒産モラル"の荒廃である。

ところが、昭和恐慌を代表する「鈴木商店」の倒産を調べてみると、"きれいな倒産"の印象が強いのである。一言でいえば私利私欲の影がないことにつきる。

この金子の徳をしたうかのように、鈴木商店社員のOBの集まり「辰巳会」は昭和35年に結成され、以来毎年関西地区で全国大会が開かれ旧交を温めている。今年1月発行の会誌第34号によれば、現在98歳の田子冨彦さんを筆頭に293人が今なお健在である。

私は戦前と戦後の"倒産のモラル"の違いを追跡するねらいで昭和53年5月、京都大雲院南渓園で開かれた辰巳会総会を取材し「今昔倒産気質」のタイトルでテレビ・ニュースで放映したことがある。

倒産当時ロンドン支店に勤務していた小野三郎さんは、「国際関係の信用保持のために、海外諸国の取引先に迷惑をかけないように一番配慮した」と証言し、帰国した小野さんを迎えた金子は「よう帰ってきた。決してへんなことをするなよ」と父親のようにさとしたという。

書生として、金子の息子で後年哲学者となった金子武蔵(現東大名誉教授)さんの面倒をみたことがある橋本隆正さんの再就職のために、倒産残務整理で多忙の際にもかかわらず、ライバルの三菱にも頭を下げに出かけるほど金子は社員を大切にした。

倒産後、債権、債務の整理のため金子の秘書役として仕えた田代義雄さんによれば、「倒産宣告も和議申請も受けず、債権者たちが債権のタナ上げに協力してくれ、6年間で清算会社にすることができたのは、まったく金子さんの私利私欲のない人柄によるものだった。借家住まいに電話1本といった暮らしぶりだったのだから。債権者たちが「金子、もう一度再建しろよ」と励ましていたのが印象的だった」という。

「金子さんは債権者一人一人にわびて回り、『責任は全部おれがかぶる』といい『自殺しないのもそのためだ』ともらしていた」そうだ。倒産してもあとは野となれ山となれとさっさと逃げだす最近の経営者に比べてあまりにも対照的だが、金子直吉に限らず戦前の倒産では、個人資産をはたいてまでも債務の最低3分の1は返済するのが経営者の不文律のオキテであったようだ。

◯経営近代化に逆行した家業意識
伊藤忠商事の越後正一さんは、「超拡大主義、攻め一本槍の経営じゃ命取りになるな。相場は引き際をあらかじめ頭に入れておくことが成功のコツだよ」と話しており、永井幸太郎さんも「金子さんは商売よりの工業のほうが性に合っていたようだな」と話していた。

退くことを知らぬワンマン経営者では、大正9年の反動恐慌、大正12年の震災恐慌を乗り切る手綱さばきを期待するのは無理だったろう。しかし、そうした金子の経営ポリシーもさることながら、組織が急速に肥大化しているにもかかわらず、また社会の動向も労働運動の高まりという近代化が進んでいるにもかかわらず、鈴木商店自体の体質改善が図られなかった点が倒産の遠因になっているように見える。

「現行例規集」の第2編には、"本家"と社員の関係として、新入社員、海外出張者、帰国者、転勤者、結婚した社員は妻とともに鈴木家にあいさつに行くこと、そのかわり鈴木家から紋服の贈与があること、お家様(鈴木よね)の写真が贈られること、が規定されている。この規定は米騒動から半年後の大正8年2月、つまり鈴木商店のピーク時に新たに通知されていることに驚く。

高畑誠一がロンドンから財務内容の公表や株式の公開を求め、近代的企業への脱皮を促しているときに金子は古くさい家業意識を一段と育てる道を選んだ。同じ年、鐘紡の武藤(むとう)山治(さんじ)は世界労働会議に日本の雇用主代表として出席。近代的労使関係も基づく「従業員待遇法」という就業規則の作成に着手しているというのに ・・・・。

金子は確実に時代の潮流を見失っていたのだ。ワンマン経営のためには家業意識のうえにのることは不可欠だが、ワンマン経営をチェックする組織体制に転換するほうがより発展につながるということに気づかなかったという気がする。(抜粋)

「金子直吉と商人倫理」(日商岩井の広報誌・月刊「トレードピア」1981年4月号、著者:大塚 融)より
※大塚氏のNHK大阪放送局・報道部記者時代の著作

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