⑫大本百松翁顕彰碑
播磨造船所の請負人として起業した大本組
大本組の創業者、大本百松翁は薮谷の社宅街の一角に邸宅を構えていた。昭和52(1977)年、大本組が創業70周年にあたって邸宅跡に建立した大本百松翁顕彰碑はこのように記す。
「翁は明治二十四年岡山県淺口郡連島町鶴新田に生まれ
明治四十年独力で土木請負業に踏みだし
広島県因島にて三上英果氏の知遇を得
大正七年同氏の招請により相生に来り
この地に本店をおいた
ほどなく播磨造船所の指定請負人となる
爾来所内外の諸工事に参加し事業発展の基盤を築いた
昭和八年本店を岡山に移し
同十二年株式会社大本組を設立し社長となる」
大正7(1918)年、米騒動で鈴木商店本店が焼き討ちされ、鈴木よね店主が避難していた須磨の屋敷にも民衆が押しかけた。大本百松翁は仲間を率いて相生から須磨に駆けつけ、屋敷を守るとともに民衆を説得した。鈴木よね店主は翁を評価し、鈴木商店が投資する発電所等の土木工事を大本組に発注、大本組は事業を拡大していった。
翁は、社宅街のまちづくりに尽力した。厳島神社の鳥居傍の左右にある玉垣には大本百松の名が刻まれている。
厳島神社は、鎌倉時代、相模から地頭として矢野荘に赴任した海老名氏が江ノ島の弁天様を勧請したのが始まりとされ、明治時代まで海中に浮かぶ島にある小さな祠であった。
第一次世界大戦中、播磨造船所がこのあたりの海を埋め立てたときに地続きとなる。埋立地に建てられた社宅街の人々は、弁天社を鎮守の森にしようと考え、社殿を建て夏秋の弁天祭りを楽しむようになった。