④IHI相生総合事務所
タンカーのような美しい容姿のビルディング
昭和33(1958)年、播磨造船所は創業五十周年を迎えた。当時、造船は日本のリーディング・インダストリーとして躍進し、船舶は日本の主要な輸出品であった。
この頃、播磨造船所は、設備投資を続けるかたわら、播磨病院・相生球場・陸上競技場・体育館など厚生施設の建設を進めた。相生総合事務所は、造船所の繁栄を象徴するような美しいビルとして誕生した。
昭和35(1960)年、播磨造船所は石川島重工業と合併し、石川島播磨重工業となる。高度経済成長のなか、相生第一工場は、昭和37(1962)年に世界最大の建造量を誇る造船所となった。ソビエトへの輸出が増え、商工会議所は商店主のためのロシア語講座を開講した。総合事務所の前に停泊している船は、ソビエト船EOROである。
しかし、1970年代後半になると、造船不況といわれる時代が始まり、建造施設の縮小を迫られるようになる。そして、1985年のプラザ合意による円高に直撃されて新造船の廃止が決定し、1987年のWestwood Jagoが相生で建造された最後の大型船となった。
相生の船舶海洋事業はアイ・エイチ・アイ・アムテックからJMUアムテックに継承され、船首や船橋など高付加価値製品と小型特殊船を建造している。Dr.海洋は相生で建造された海洋環境船である。