(A)-➀太陽中学校

羽幌本坑および上羽幌坑の開発着手と同時期に開校  

太陽中学校は昭和22(1947)年5月1日、岡町の太陽小学校に併置する形で2学級、生徒数107名をもって開校した。

この昭和22年前後は、終戦後の混乱期に当たる。石炭業界は人出不足、労働意欲の低下に加えて労働争議が日毎に激しさを増しつつあり、各社とも苦境に直面していたが、羽幌炭砿も決して例外ではなかった。同社が、羽幌本坑および上羽幌坑の開発に着手したのもこの時期である。

「太陽」の名称は、創業期の炭鉱所有者で鈴木商店の後継会社たる太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)に由来する。                             

昭和24(1949)年7月1日、曙分校を曙小学校に併置して、4学級、生徒数178名をもって開設。昭和28(1953)年6月、曙分校が独立し、曙中学校となる。

昭和30年(1955)年から翌年にかけて、金子町に段階的に独立校舎が完成し、移転。場所は羽幌炭砿鉄道病院の北東方向に位置していた。昭和42(1967)年10月時点で12学級、生徒数319名。昭和46(1971)年5月31日、炭砿の閉山に伴い廃校。

現在、太陽中学校跡には校舎などの建物の痕跡は残っていない。体育館の建物は廃校後すぐに羽幌港近くに移設され、今も「羽幌町港湾上屋」(倉庫)として利用されている。建物内部の柱などの造作は当時のままであり、頑丈な昔の雰囲気を保ち続けている。  

因みに、同校校歌の2番の歌詞(*)には炭砿に関係する内容が挿入されており、炭砿と地域住民の切っても切れない関係が表されているようで大変興味深い。

(*)『サイレンひびく 鉱山の朝 はげみつどいて みずから学ぶ ここに夢あり 誠実の たかき教えぞ 空広く あゝ太陽の 名をおいて われら日本の ほこりとならん』

  • 太陽中学校跡(平成26年10月)
  • 今も倉庫として利用されている太陽中学校体育館(平成25年頃)
  • 太陽中学校(当時)

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