⑫樺太ツンドラ工業
"ツンドラや神代ながらの草の色" 片水
日露戦争後、樺太全島を領有することになった明治政府は、樺太庁を開庁、首相桂太郎、後藤新平、杉山茂丸等は、金子直吉を招き樺太の開発検討を要請。金子の台湾での功績を評価しての依頼であった。
鈴木商店は、政府が軍艦「春日」を樺太に派遣した際、田丸亭之助(後の文部大臣)の従者として社員を便乗させ、樺太の実地調査を行い、初代樺太庁長官・平岡定太郎よりツンドラ(永久凍土の泥炭地)の採集権を獲得。鈴木商店としてツンドラの事業化を試みるも、90%近く水分を含むツンドラの脱水加工に思いのほか苦戦した。
極地のツンドラと多少異なり樺太のツンドラは、永久凍土に広く存在し、北海道の泥炭地に似た特質がある。
金子直吉の並々ならぬ熱意により巨額の研究費用を投じてツンドラの資源化を図った。鈴木破綻後、金子は昭和14(1939)年、資本金100万円の「樺太ツンドラ工業」を幌内川流域の佐知に設立。竹田儀一(後に 国務大臣、厚生大臣を歴任した後、神鋼商事社長)を社長に、金子三次郎(後に羽幌炭砿鉄道・専務)を専務に起用して、事業化に乗り出した。
昭和16(1941)年には、横浜子安に研究所を設け、さらに昭和18(1943)年には、資本金を400万円に増資。軍需用、建築用、保温材用としてツンドラ板30万枚の生産を実現し、事業化に光明が見えた最中、昭和19(1944)年に金子は志半ばで旅立った。
金子直吉のツンドラ事業に賭けた熱い思いを詠んだ句が俳号「片水」名で残されている。
◇ツンドラや神代ながらの草の色 片水
◇ツンドラや楔する野の神々し 片水