①J-オイルミルズ清水工場
清水港への大企業進出第一号
大正6(1917)年に鈴木商店製油工場の操業が開始された。
南満州鉄道の大豆事業を鈴木商店が買い取る際に、国内に製油所を設立することが条件化され、横浜、鳴尾の他に清水が選ばれた。港湾埋立計画が進み、大型船の入港が可能なことがその選定理由となった。
県営清江埋立地事業に関して、県外企業が払い下げを受けることには抵抗があり、諸条件で揉めていた。そこで鈴木商店支配人は「鈴木が清水港に関係を結びたるは最近の事なれども、静岡県の発達は清水港の利用如何により定まるものとの信念の下に、力の及ぶ限り産業上に尽力せんことを期したり・・三万坪の敷地を借入れ、工業を建設して如何なる事業をなすかと云へば、豆粕の製造なり。豆粕は大連にて毎日百五十屯を製出しつつあれど、欧州戦争以来軍需品と輸出され、内地に輸入の余裕なければ、新工場を清水港に建設し、毎日三百屯を輸出せん計画なり。・・・」と語り、鈴木商店の進出に理解を求めた。
清水市史には、「清水貿易は茶輸出だけで埋立地は荒廃と化していたが、関西事業の覇王神戸の鈴木商店が進出するとなるや、死火であった地元も動き、鈴木の腕に復活蘇生された。まさに魔人鈴木の怪力は大工場を立て、豆を絞る、豆粕を造る、数十の事務員と数百の職工、眼前に聳え立つ工場は清江士に力強い興業の精神を与え、やがて各種の大工業の振興は火を見るが如く明らかだとの評価を与えた」と鈴木商店進出が清水の産業界の発展の転機であったことを語っている。
そして大正11(1922)年、鈴木商店製油部から独立し、豊年製油を設立。初代社長は柳田富士松が務めた。その後、大正13(1924)年には杉山金太郎が、当時蔵相であり金子直吉と親交があった井上準之助の推薦により豊年製油の社長に就任する。その後、豊年製油の大豆油の販売は大正13(1924)年には日本のシェアの6-7割を誇るほどに成長。
「ホーネン70年のあゆみ」には昭和9(1934)年頃の思い出話が紹介されている。「現場作業員はほとんどが清水市の人だった。給与が高く、豊年というだけで大したものだった。清水市長の年俸が3,000円くらいだったが、工場長の年俸は5,000~6,000円だった。当時はまだ豊年というよりも鈴木という名の方が知られていて、豊年と鈴木の名がチャンポンで出ていた」