⑦館山浄水場
帝人の事業拡大により上水道が整備される
人絹を製造するには多量の水が必要である。人絹の生産開始時には、潅漑用の館山堰から取得した水利権を活用していたが、後に生産量が伸びると工場の拡張のために、用水の確保が必要となった。
この館山堰の取水口は旧三沢村伏坂地内の大樽川右岸に設置され、相当量の水量を取水していたが、途中の水路が不完全で、かつ荒廃しており取水量の大半は漏失する状態にあり、用水確保のためには早急に改修する必要があった。
本工事には巨額の費用(2.5万円)を要したが、帝人が半額、残りを県および水利関係者にて負担することで改修が実現。大正15(1926)年に竣工した。帝人は、米沢市大字館山字古寺跡の高台地に浄配水施設を築造し、約1キロ離れた工場までの各町内要所に消火栓を設置するなどして水道管を布設する工事に着手した。その後、事業主体が米沢市に移り、市の水道事業として発展することになる。
その後、帝国人絹は、用水の確保や排水処理の問題から米沢工場を閉鎖し、広島工場に移転する。その結果、上水道の維持が不可能となり同施設は休止される。戦後、公衆衛生思想の向上に伴い、上水道の必要性が高まり、昭和26(1951)年に同施設は再利用されることになり、現在に至っている。