辰巳屋
カネ辰・鈴木商店のルーツ
辰巳屋嘉兵衛は、播州姫路の出身で文化文政(1804~1830年)の頃、姫路特産の白なめし革の煙草入れ等の細工物を手広く商っていた。大阪ミナミの他道頓堀にも店を構えていた。
播州姫路の松原夏蔵の子・藤助(幼名・藤松)は、同郷の辰巳屋嘉兵衛を頼り入店、奉公に励んで番頭として大阪道頓堀の店を任されるまでになった。文政7(1824)年に“辰巳屋”ののれん分けで大阪大宝寺町に独立・開業、「辰己屋松原商店」の誕生である。
辰巳屋二代目を継いだのが藤助の次男恒七で「辰巳屋恒七」を名乗る。後の柳田富士松の実父である。恒七の代になって砂糖、べっ甲、象牙、サンゴ類の輸入品の取扱いを始め、明治初め頃には大阪・神戸の貿易商の最大手になっていた。大阪・大宝寺町から船場長堀橋北詰に店を移した「辰巳屋恒七」は、明治初期には、自社の砂糖船を保有するほどに業容を拡大した。
恒七が兵庫・弁天浜に出張所を設けたのはこの頃で、先代岩治郎が辰巳屋恒七の神戸出張所に雇われたことが、鈴木商店のルーツである。
恒七には、長男・富士松がいたが恒七の妹夫婦・柳田家(柳田卯兵衛・はる)に幼くして養子に出ていた。恒七は病に倒れると引退を決意し、女婿・藤田助七に本店(大阪・長堀)を、神戸出張所を鈴木岩治郎の両番頭に辰巳屋ののれんを譲ることとなった。
さらに辰己屋の籐事業について柳田卯兵衛の弟伊助にもカネ辰の暖簾を与えて事業を支援している。こうしてカネ辰・藤田商店、カネ辰・鈴木商店と共にカネ辰・柳田商店が誕生した。
藤田商店、鈴木商店の両辰巳屋は、同族的な連繋を強め、藤田商店は鈴木の原動力としてその発展を支えた。
なお、辰巳屋宗家は、嘉兵衛の息子の代になると家運が傾き、やがて没落してしまった。 (「柳田富士松伝」)