大勝負
金子直吉の空前の大勝負の成功により新興コンツエルン誕生
事業拡大に乗り出した鈴木商店が海外支店出張所の創設・拡充を図っている中、入社3年目の若き高畑誠一(当時25歳)がロンドンに派遣されたのは、明治45(1912)年のことである。
大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると、当初開戦ショックから我が国の貿易・海運業界は大混乱となり、深刻な不況に陥った。しかし、金子直吉は軍需品の暴騰を予想し、千載一遇の大好機として、開戦から3か月、全ての商品・船舶に対する一斉買い出動の大方策を打ち出した。
当時の会計主任・日野誠義(後の本店支配人)に「今日以後は鈴木の信用と財産とを充分に利用してできるだけの金をそろえ、極度の融通を計ってもらいたい。めくら滅法だ。まっしぐらに前進じゃ」と指令して空前の大勝負に出た。
まずは銑鉄、鋼材に着目し、ロンドン支店長高畑に異例の電文“BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE”(鉄と名のつくものは何でも金に糸目をつけず、いくらでも買いまくれ)と発信し、イギリスの鉄、続いて米国の鉄に手を拡げた。
次に金子が目をつけたのは船舶。川崎造船所、三菱造船所、石川島造船所、大阪鉄工所(現・日立造船)などに1万トン級貨物船を発注すると、その見返りに造船用の鋼材を大量に売り込む。続いて砂糖、小麦等あらゆる商品に対する買い出動を実行して膨大な利益を得た。
こうした大戦景気を予想した金子の先見性による大方策が成功し、瞬く間に新興コンツエルンが形成された。
鈴木商店と密接な取引関係にあり、金子の盟友・松方幸次郎が社長を務める川崎造船所も金子と同様に買い思惑に乗り出し、ストックボートという船舶の見込み生産に踏み切って大成功を収めた。
この大戦景気は、我が国の資本主義経済にもかつてないほどの大拡張をもたらせ、特に重化学工業や繊維産業の伸長が著しく、「戦争成金」が続出した。