塩・煙草事業の進出、製糖事業の拡大

塩・煙草・製糖事業を台湾、中国大陸を軸に展開

金子直吉は、「塩を制する者は化学工業の経営を制する。すなわちソーダ加里は多数の工業を制約する」と塩業に強い関心を抱いていた。 

金子は愛知県知多郡半田の豪商・小栗富治郎が経営する小栗銀行(名古屋)の経営破綻に伴う整理について桂太郎(当時第2次桂内閣首相)の相談に応じ、鈴木商店は小栗が保有していた台湾塩の一手販売権を継承し、その一手販売権を手掛かりにして同行の整理に着手するとともに、台湾塩の日本国内への移出業務を担うため明治42(1909)年、その受け皿会社として東洋塩業(明治43年、「台湾塩業」に改称する)を設立した。

金子は大蔵省専売局から煙草を扱う岩谷商会に入り活躍していた藤田謙一を東洋塩業に迎え入れ、小栗銀行の整理および台湾塩の移出業務に当たらせると、藤田は持ち前の経営手腕を発揮し、小栗銀行の整理を完遂して東洋塩業の経営を軌道に乗せ、同社の専務取締役に就任した。後に、金子は藤田を鈴木商店の幹部として重用し、関係会社各社の役員としても起用した。

また、日本食塩コークスを起源とし、関東州(中国・遼東半島の租借地)の塩田経営と関東州塩の取扱いで発展した大日本塩業(現・日塩)を大正3(1914)年に買収した鈴木商店は大正6(1917)年、台湾塩業を大日本塩業に合併させた。かくして鈴木商店は、新生・大日本塩業を核に台湾塩とならび関東州塩の輸移入販売を独占する。

さらに、鈴木商店は北九州・大里に再製塩工場(明治43(1910)年設立)を、鈴木商店経営の日本金属彦島製錬所内に分工場 (大正7(1918)年設立) を建設し、関東州塩・台湾塩を再製して販路を国内外に拡げていった。

煙草事業は当時、満州、朝鮮、支那(中国)、南洋各地の煙草事業が英米煙草トラスト社(BAT)に独占されており、これを駆逐すべきとの金子の使命感から同郷の浜口雄幸が専売局長官の時に協力を得て明治39(1906)年、奉天に東亜煙草を設立したとされる。(実際には、鈴木商店が東亜煙草の株式を買い進め、藤田謙一を役員に送りこんで大正2(1913)年に買収したとする説もある。)

さらに、大正10(1921)年には中国・青島に「米星(べいせい)煙草(米星産業、米星商事、米星煙草貿易、日商岩井物資販売、双日ジーエムシーを経て現・双日インフィニティ)」を設立した。

製糖事業では明治40(1907)年、鈴木商店は大里製糖所(明治36(1903)年設立)を大日本製糖(後の大日本明治製糖)に売却したものの、同社と製品の一手販売契約を結び製糖業界に一層の関わりを持った。

さらに、台湾に北港製糖(明治43(1910)年設立)、斗六製糖(大正元(1912)年設立)を設立すると、台湾を拠点とする東洋製糖(大正3(1914)年買収)(*)を買収(いずれもその後、大日本製糖に吸収)したほか、南洋製糖(大正4(1915)年買収)、塩水港製糖(明治40(1907)年出資、後の塩水港精糖、三井製糖)を買収・系列化し、製糖事業を明治後期から大正期にかけての主要事業に育て上げた。

(*)大正8(1919)年、東洋製糖から大成化学工業が分社する。

関連リンク

  • 関東州塩
  • 大日本塩業安平出張所の倉庫跡(台湾に現存)
  • 旧台湾総督府専売局
  • 東亜煙草ケース
  • 東洋製糖・月眉製糖所(台湾)

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