梶山増吉
鈴木商店の海運事業の飛躍を経験、カネタツ海運を経て国華産業を設立
生年 不詳
没年 昭和43(1968)年2月
広島出身。大正7(1918)年、東京高等商業学校(東京高商、現・一橋大学)卒業後、鈴木商店入社。大屋晋三(鈴木商店を経て後の帝人社長)とは、東京高商からの同期生。
神戸製鋼所へ一時配属後、本店に戻り”貨物部”に所属されたことが、その後の経歴に大きく影響を及ぼした。第一次世界大戦による大戦景気の折、ロンドン支店長・高畑誠一により手掛けられた三国間貿易により、貿易量が飛躍的に伸び、海上輸送の新しい体制が急務となった。
折しも海運事業の拡大を図る鈴木商店は、定期傭船や航海傭船による社外船輸送から自社船による自営輸送に切り替え、鈴木商店の船舶部門の出発点となる”南満州汽船”を設立。大連置籍船の運営へ大きく舵を切った。
船舶部門と連携し運送業務に関わる貨物部に属する梶山は、海運事業の実務面の基礎から貴重な経験を積むことになった。
南満州汽船から出発し、帝国汽船、国際汽船へ展開する鈴木商店の海運事業の飛躍を側面から支えた経験がその後の「カネタツ海運合資」の設立に繋がった。
梶山は、鈴木商店が破綻した翌年、昭和3(1928)年4月、鈴木時代の繋がりのある大日本人造肥料(現・日産化学)の燐鉱石の輸入に関し、船舶の調達から運輸業務一切を引き受ける新会社を設立した。社名は、”カネ辰鈴木商店”に因み「カネタツ海運合資会社」とした。「弥栄丸」等自社船を保有し、事業は順調に推移したが、太平洋戦争のため解散の止む無きに至った。
戦時中、鈴木時代から親交のあった帝人・大屋晋三からの要請を受け、昭和19(1944)年、帝人の船舶部の設立に協力して石炭をはじめとする緊急物資の輸送を行い、梶山は帝人の海運事業の中核となった。
戦後、昭和22(1947)年、帝人船舶部を母胎とした海運事業に帝人から移管された保険事業を加えて「国華産業海運」が神戸に設立され、梶山が代表取締役に就任。昭和26(1951)年、帝人の関係会社として帝人との関係が益々強まった。
事業の中心が石炭事業、保険事業であり、海運事業の比重が低いことから昭和29(1954)年、社名を現在の「国華産業」に変更。国華産業が海運事業に本格的に進出したのは、昭和31(1956)年で梶山の念願が果たされた。帝人の人造絹糸原料及び資材輸送から始まり、徐々に販路を広げ、やがて化学品輸送に特化する。
梶山は、昭和22(1947)年以来21年間にわたって終生社長に在任し、高温度特殊タンク船事業、メタノールを始めとするケミカルタンカー事業を築くなど国華産業の基盤を確立した。