矢野松三郎
半世紀以上にわたり日本工具製作(現・日工)を牽引し、今日の発展の礎を築く
生年 明治26(1893)年
没年 昭和48(1973)年2月20日
明治26(1893)年に愛媛県大洲(おおず)町に出生し、17歳の時鈴木商店に入社。その後、鈴木商店傘下の日本金属彦島製錬所用度課主任を経て鈴木商店本店工事部用度課長となり、さらに抜擢されて日本金属大里製錬所経理部長の要職に就いた。矢野は並々ならぬ努力家で、手がけた仕事は必ずやり通すという信念と熱意の持ち主であった。
大正7(1918)年8月12日に起こった鈴木商店焼打ち事件の後、鈴木商店本店工事部部長の吉本亀三郎(後・日本工具製作第二代社長)、同部次長の土屋新兵衛(後・日本工具製作創立委員長、発起人代表)、同部会計課長の奥田良三(後・同社初代代表取締役専務)、同部用度課長の矢野松三郎(後・同社第二代代表取締役専務、第三代社長)の4名を中心に、土農工具(ショベル、スコップ、ツルハシなど)の製造を主業とする新会社の設立に向けて検討が進められ大正8(1919)年8月13日、「日本工具製作株式会社」(現・日工株式会社)が設立された。
同社は当初社長は置かず、代表取締役専務に就任した奥田良三が二人の相談役、吉本亀三郎と土屋新兵衛の指導・補佐の下で経営に専念していたが大正9(1920)年1月4日、奥田は「スペイン風邪」(今で言う「インフルエンザ」。全世界で4,000万人、わが国では38万人が亡くなったともいわれている)に罹り、専務就任わずか5か月後に建設中の新工場(第一工場)の落成を見ることなく忽然と死去した。
奥田の突然の死去を受け、相談役の土屋新兵衛は後任にかつて鈴木商店本店工事部用度課長であった矢野松三郎を推薦した。当時、矢野は新会社の設立に先立ち日本金属大里製錬所の経理部長として転任しており、新会社の経営については関与していなかった。大正9(1920)年2月1日、白羽の矢が立てられた矢野は奥田の後を受けて代表取締役専務に就任し、同社の経営は若い矢野に引き継がれた。矢野松三郎、27歳の時であった。
その後、同社は専任社長を置くことになり、初代社長には監査役で最年長者であった辻泰城が就任し、辻の死後はやはり老齢の吉本亀三郎が第二代社長に就任した。この間、矢野は二人の社長の下で専務として実務に辣腕を振るっていたが吉本も死去し、その約2年後の昭和14(1939)12月28日に第三代社長に就任した。
矢野は社長就任から実に32年2カ月(専務時代から数えると約52年)にわたり同社を牽引し続けた。矢野は昭和47(1972)年1月以降は会長として同社発展のために尽力したが昭和48(1973)年2月20日、全社あげての祈りも空しく帰らぬ人となった。
矢野は社業以外にも明石商工会議所会頭・顧問、株式会社明石商工会館社長、明石市自治体警察の公安委員長、神戸地方裁判所明石支部民事一般商事調停委員および司法委員などの要職を務め、地域のためにも力を尽くした。昭和37(1962)年に藍綬褒章を受章し、昭和40(1965)年には勳五等に叙せられ、双光旭日賞を受賞。昭和48(1973)年には紺綬褒章を受章し、死去とともに正六位を追叙された。
常に全従業員の陣頭に立って困難に立ち向かい、社業の発展に尽くした矢野の生涯はそのまま日工株式会社の歴史であったと言っても過言ではない。
同社は、矢野社長時代の昭和30年代前半にショベルやスコップといった工具類の製造からコンクリートミキサーやウインチ、さらにはバッチャープラント、アスファルトプラントなど建設機械の製造へと大きく舵を切り、昭和43(1968)年2月1日には社名を「株式会社日工」に変更。現在はアスファルトプラントなど土木用大型プラントのトップメーカーとしてわが国のインフラ整備の最前線を支えている。