米田龍平
アメリカで習得した最先端技術によりわが国の製粉事業の発展に尽くす
生年 明治元(1868)年
没年 昭和2(1927)年
米田龍平は明治元(1868)年、大阪に出生。17歳の時に初めて渡米を図るも、親に発覚して断念。明治19(1886)年、19歳で単身渡米し製粉工業の中心地・ミネアポリスのウルフ社に入社すると、持ち前の粘り強さと陽気な性格から「ドラゴン・ヨネダ」と呼ばれる一流の製粉技術者に成長した。
米田は本場アメリカで習得した最先端の製粉技術により日本の製粉事業に貢献したいと考え明治34(1901)年、家族(アメリカでフランス人のウジェニ・ガレーと結婚)を残して単身帰国する。
明治35(1902)年、米田の力量を知った地元(札幌)の有力者たちは札幌製粉を設立するに当たり米田を招へい。支配人兼技師長として着任した米田は、高品質の製品を大量に生産できる機械製粉の技術を確立した。
明治39(1906)年、イギリス人経営の香港製粉に招へいされ、同社が解散すると明治43(1910)年、知遇を得た後藤新平の紹介により鈴木商店に入社して大里製粉所の建設に携わり、引き続き技師長として手腕を発揮する。大里製粉所は米田の指導の下で生まれた「赤ダイヤ」「緑ダイヤ」などのブランドで販売を促進し、業績は順調に推移した。
大正9(1920)年、大里製粉所が日本製粉と合併し日本製粉門司工場となって以降は下関営業所参事として指導的役割を果たし、「赤ダイヤ」「緑ダイヤ」のブランドもそのまま受け継がれた。
米田に対する高い評価は、その月俸が日本製粉下関支店長と同額であったことからも窺うことができる。お雇い外国人技師に指導を仰がねばならなかった明治期にあって、わが国ばかりか欧米からも高く評価された米田の存在はひときわ輝きを放っている。
なお、平成13(2001)年8月1日付日本経済新聞朝刊の「文化」欄に投稿された米田龍平の曾孫・村上嘉代子氏による「曾祖父は近代製粉の父」には、米田の輝かしい経歴・実績のほか米田がアメリカ時代にフランス人女性・ウジェニに猛烈にプロポーズしたこと、ウジェニが日本での生活に慣れずに苦労したこと、米田がおしゃれで仕事熱心でユーモアに溢あふれる人だったこと、手先が器用でベッドは手作りだったことなどプライベート面でのエピソードも紹介された。