辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑩「第10号」をご紹介します。

2020.8.9.

20200317_112043表紙(たつみ第10号).jpg "たつみ第10号"は、昭和43(1968)年12月に発行されました。会員の鈴木商店に寄せる熱い思いは益々高まり、多くの投稿が寄せられています。また、本年は羽幌炭砿鉄道社長・町田叡光氏ほかの肝いりで北海道支部が結成されたことの喜こびを編集後記に記しています。

 本号の表紙を飾るのは、"沖縄びんがた"の美しい絵柄で表紙裏には、鈴木商店絶頂期の象徴の建物があった東川崎町の本店の変遷を「川崎町の思い出」として、また裏表紙裏には、昭和2年4月鈴木商店破綻の日、小樽支店解散の記念写真を掲載しています。

◇「鈴木商店の興亡」=森本準一氏に聞く

 台湾銀行第4代頭取・中川小十郎から特命を受け、鈴木への貸出し資金の調査や鈴木の組織改革のため同行神戸支店に派遣され、其の後、鈴木商店に転籍した森本準一が、鈴木商店の行き詰まりの実態を融資の当事者だった台湾銀行の立場から振り返っています。

 "(鈴木の)破綻の原因"について聞かれた森本は、金子と松方(幸次郎)を挙げて、二人とも独断専行の男だったことがその一つと云う。景気が良い時は、物事が手っ取り早く運ぶがいざ不況になると他の人では事情が判らないため行き詰まってしまう。会社は組織をしっかりしておかねばならない。

 その二は、金子も松方も神戸に本社を置き側近に経営方針を批判する人がいなかった。もし、本拠を東京に置き情勢を早くキャッチし、側に有力なアドバイザーがいたらあれまで失敗はしなかっただろうと。高畑、永井、大屋などの英才は当時はまだ何れも30歳台で金子さんに対する発言力は弱かった。(詳細は、下記の関連資料をご覧ください。)

 鈴木商店が、先鞭をつけた「アンモニア工業」と「硬化油工業」について、鈴木の果たした功績を解説する記事を載せています。

◇「わが国アンモニア工業発祥の地のことども」

 我が国の化学工業の中核とも云える"アンモニア工業"は、下関市彦島が発祥の地でアンモニア合成法の企業化を計画し、フランスのクロード法特許を買収し、鈴木商店系の日本金属彦島精錬所(現在の彦島精錬)内にクロード式窒素工業会社を設立したのが外ならぬ鈴木商店である。

 クロード式窒素工業は、鈴木商店から三井鉱山に引き継がれ、さらに東洋高圧工業に発展(昭和43年当時、現在は下関三井化学)したが、"わが国でアンモニア工業を創設した光栄と栄誉は鈴木商店がになうもの"との認識は、先ごろ東洋高圧が彦島に建立した記念碑にも記されている。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「初期硬化油工業の成立(鈴木商店を中心に)」

 日本における硬化油工業は、外国資本のリバー・ブラザース尼崎工場(原稿表記、正式には日本リーバ・ブラザーズ尼崎工場)が始まりだが、これは自社製の石鹸原料としての硬化油生産であり、工業的に硬化油を開発し、日本の硬化油工業を推進した観点からは、鈴木商店製油所兵庫工場(現在の日油)をもって始まったと云えよう。

 明治後期、事業拡大を図る鈴木商店が新規事業として人絹とともに油脂に目をつけ、神戸・苅藻島に魚油倉庫を設け、北海道から集荷した魚油を精製してドイツへ輸出していた。外国商館・イリス商会を通じて増大する需要に応じていたが、密かに調べてみると欧州では魚油を硬化して、石鹸や人造バター(マーガリン)を製造していることを知り、急遽硬化油の研究に着手したのが鈴木の硬化油事業の始まりであった。

 鈴木商店の化学部門の最高顧問格の技師・村橋素吉の下、久保田四郎、磯部房吉など錚々たる技術者の努力により鈴木商店は、兵庫、保土ヶ谷、王子各工場を擁する油脂事業を育て上げた。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「辰巳会北海道支部結成」

 昭和43(1968)年11月3日、辰巳会北海道支部発会式が開かれ、道内在住会員・準会員34名のうち22名の出席があった。羽幌炭砿鉄道第2代社長を務める町田叡光支部長以下、函館、小樽、札幌地区の支部役員が選出された。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「横浜支店時代の思い出」 曽根 好雄

 大正7(1918)年の米騒動により東川崎町の本店を焼失した鈴木商店は、その跡地にバラックの仮住居の本店(下記の関連資料「川崎町の思い出」ご参照)で営業再開したが、この仮社屋に"ぼんさん"として入店した筆者は、見習い期間を経て横浜支店生糸部に転勤を命ぜられた。

 横浜支店時代、三井物産や他の輸出大手との商戦はやりがいのある懐かしい思い出で、また大正12(1923)年に遭遇した関東大震災では、避難者として第一船で神戸に戻ったが、震災の体験者が到着したとして神戸の埠頭には多くの出迎えの人々で埋まっている中、本店に到着し、お家さんに詳細を報告、慰労のお言葉を頂いた上、新調の着物、帯を頂いた心尽くしの有難さは今なお忘れられない心温まる思い出だと云う。

 

 本年(昭和43(1968)年)は、大正7(1918)年の米騒動から50年目となることから、米騒動にまつわる投稿が相次いだ。 

◇「米騒動50周年に思う」井上清

◇「米騒動余談」柳田義一

 "黄旗亭"のペンネームで投稿常連者の筆者が、鈴木商店社員の中で土佐出身者による「相撲部」人脈についてエピソードを披露しています。

◇「続 宇治川夜話~相撲人国記」黄旗亭(木畑龍治郎)    

 

  

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