相生市文化会館にて鈴木商店進出100周年記念イベント「播磨造船所と相生の近代化」が開催されました。
2016.8.3.
2016.7.12付編集委員会ブログにてご案内のとおり、大正5(1916)年4月に鈴木商店が相生に進出し(株)播磨造船所を設立してから100周年を迎えるのを機に、7月21日(木)から8月1日(月)までの間、兵庫県相生市の相生市文化会館 扶桑電通なぎさホール(兵庫県相生市相生6-1-1)にて相生市教育委員会主催の記念イベントが開催されました。
この度のイベントは、当記念館の協力者(相生地域ご担当)でもある松本恵司氏(兵庫県立須磨友が丘高等学校教諭、相生市立歴史民俗資料館 歴史講座講師)が所属する「NPO 相生いきいきネット」が中心となって相生市に働きかけた結果、実現の運びとなったものです。
当記念館からは、7月31日(日)に小宮編集副委員長と金子編集委員の2名が参加・出席しました。
■展示
扶桑電通なぎさホール1階 ホワイエでは、平成28年7月21日(木)~8月1日(月)の間、唐端清太郎の写真・肖像画、播磨造船所発展の歴史が一目で分かる写真パネル、播磨造船所平面図、日米船鉄交換船「EASTERN SOLDIER」(イースタンソルジャー)の設計図面・進水式絵葉書、当時の相生市の写真パネルなど、往時の造船所と相生の街の繁栄の様子を伝える貴重な写真や資料約100点が展示され、子供向けチラシ(下方の関連資料をご覧下さい)も作成されるなどきめ細かい対応もなされていました。私どもが訪れた日も朝から多くの方々が来場され、熱心にご覧になっていました。
下の写真(左)の左端の人物が唐端清太郎です。写真(右)はIHI相生事業所内にある鈴木商店時代に建てられた赤煉瓦造りの雑品倉庫で、建物の上部には鈴木よねの「米」を象った菱形のマークが大きく掲げられており、鈴木商店の紋章(「米」マーク)が唯一残されている歴史的な建造物といえるでしょう。
唐端は、彼が村長就任を快諾していなかったなら相生市は存在していないだろうと誰もが思う相生の大恩人です。唐端は明治25(1892)年、相生村村長に招聘されますが、当時の相生村は人口約5,400人の寒漁村でした。唐端は水産業の振興に尽力する傍ら、相生を「西の神戸」にすることを目指し「造船所を創れば船が入り人が集まる」と考え、明治40(1907)年、阪神の財界人や地元有志を募って播磨船渠(株)を設立しましたが、規模が小さいため大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦という好機を活かすことができず、鈴木商店に造船所の買収と工場の拡張を申し入れます。
大正5(1916)年、鈴木商店の金子直吉は盟友の川崎造船所社長・松方幸次郎の意見を聞いた上で播磨造船所の買収を決断し、(株)播磨造船所を設立。膨大な資本と人材を投入し、造船所の拡張を行いました。その結果、播磨造船所は有力造船所に成長し、従業員の増加とともに相生の人口は急増し、町の近代化が急速に進行しました。
■講演会
7月31日(日)午前10時からは松本恵司氏の司会進行にて、髙畑誠一の曾孫にして当記念館の特別協力者でもある鈴木薄荷株式会社(*)常務取締役・髙畑新一氏により「日本の高度成長と鈴木商店」と題し、講演会が約1時間にわたり開催されました。講演会の後は約30分間、フリートーク形式にて進行され、かつての播磨造船所ゆかりの方々ならではの熱のこもったご意見・ご質問が提示されました。
(*)鈴木薄荷は、鈴木商店が明治35(1902)年に神戸市雲井通りに建設した薄荷製造工場を起源とする薄荷事業を今も引継ぎ、唯一「鈴木」の名称と「カネ辰」の商標を継承する企業として発展を続けています。
講演の概略は、次の通りです。
〇講演者・高畑新一氏の自己紹介
〇鈴木商店記念館の紹介
〇鈴木商店再評価の動き(社会認知)
〇鈴木商店の概略
〇播磨造船所と鈴木商店
この度の講演会については事前に多くの方々から問い合わせが寄せられており、関心の高さを窺うことができたとのことですが、当日は主催者の予想をはるかに超える約200名の方にお越しいただいたため用意していた配布資料が不足し、講演中に急遽増刷するほどの大盛況でした。