辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑬「第13号」をご紹介します。
2020.10.1.
鮮やかな極彩色に仕上げた"メキシコインディオの壁掛"が表紙を飾る「たつみ第13号」は、昭和45(1970)年8月10日に発行されました。同年は、辰巳会発足10周年に当たることから5月7日、奈良の名園「依水園」に於いて「辰巳会10周年全国大会」が開かれました。辰巳会会員250名の出席の下、鈴木よね刀自33回忌、鈴木岩治郎(二代目)27回忌の法要が併せて執り行われました。
本号の巻頭を飾るのは、大屋晋三・帝人社長、外島健吉・神戸製鋼所社長からのメッセージです。「たつみ第12号」でご紹介しました旧・鈴木商店中核企業3社(神戸製鋼、帝人、日商岩井)の提携に関連し、両社長から日商岩井に期待する熱い思いが寄せられています。
◇「日商岩井に期待するもの」大屋晋三 / 「有機的補完関係を」外島健吉 )(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
会員の投稿では、鈴木時代の思い出、先輩社員を偲ぶ手記、独身時代を過ごした社員寮「済美寮」での思い出が続きます。
◇「50年昔のロンドンの思い出」 吉田秀太郎
大正3(1914)年、神戸高商第8期生として鈴木商店に入社した筆者は、後年、鈴木の破綻間際の雑貨部時代に米国リッチフィールド石油との代理店契約をまとめ上げ、新生・日商に貴重な商権として引き継いだ功労者です。
これに先立つ大正8(1919)年から大正12(1923)年まで筆者は、ロンドン支店に勤務。当時の鈴木商店海外支店では、若き精鋭達がきら星の如く縦横に活躍していた。取り分けロンドンでは、高畑誠一支店長がその敏腕を発揮し、鈴木の大黒柱として大発展を牽引していた。
筆者のロンドンでの仕事は、満州の大豆、大豆油、落花生、落花生油、ゴマなどの物産の欧州各地への売り込みで、後には合同油脂の硬化油なども扱った。大豆油の輸出では、播磨造船所で建造したタンカー3隻による大量バルク輸送をわが国で初めて実現し、欧州市場を席捲したことは特筆すべき出来事であった。ライバルの三井、三菱もただ唖然として傍観するのみ。これはその後のタンカー建造時代の幕開けでもあった。
また大正9(1920)年、日本の綿糸布の最大の輸出先の支那、インドから同時に不買ボイコットに会い、輸出が止まってしまったため、日本紡績連合会より鈴木商店は販路開拓の要請を受けた。これを受けたロンドン支店より筆者がバルカン方面への市場開拓に出張したおり、いくつかのハプニングに遭遇し貴重な体験をした。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「落合さんと麦紛部」 秋元鷹男
大正8(1919)年、神戸高商を卒業(第13期生)して鈴木商店に入社した筆者は、本店麦紛部に配属された。主任以下8名の小所帯であったが、直営の大里製粉所の内地麦紛を大量に欧州向けに輸出して大きな利益を挙げていた。
神戸高商の2期先輩の落合豊一氏とは、シアトル、ポートランドで活躍していた同氏が大正11(1922)年、本店麦紛部に転任して以来、鈴木商店破綻に至るまで身近に接した。氏の人物の偉大さと識見の卓越さに敬服するばかりか、筆者の物の見方、考え方など人間形成上大きな啓発を受けたことは忘れられない。今秋(昭和45(1970)年)は、落合の13回忌を迎えるにあたり、氏を偲んで在職当時の思い出を投稿している。
本店に帰任間もなく麦紛部を取り仕切ることになった落合は、急増する小麦の対日輸入、ロンドン、ポートランド、ニューヨーク間の三国間貿易に大きな実績を挙げ、小麦の取引では三井、三菱を遥に凌駕していた。また鈴木系列となった日粉の窮状、日清との合併不調から鈴木の経営悪化を落合と共に渦中にいた筆者が振り返って綴っている。(詳しくは、下記の関連リンクをご覧ください。)
大正6(1917)年、鈴木商店に入社、大阪支店会計部に配属された筆者は、3か月後新築された社員寮「大阪済美寮」での生活がスタートした。その後本店機械部への転勤など鈴木破綻まで務めた10年間、須磨一の谷寮、布引済美寮(元オリビアホテルを買収した最大の独身寮、通称"オリ部屋")、中山手寮などで過ごした日々を綴っている。(詳しくは、関連リンクをご覧ください。)
大正7(1918)年、小学校出のいわゆるボンさんとして入店した筆者は、40名余りの新規採用された同期生と共に「北野済美寮」に入寮し初めての実社会への船出を経験した。寮長で本店教育係の先輩に引率されて、毎朝本店に通うことになった。2kmほどの本店までの道のりを徒歩で、寮長を先頭に遠足のように一群となって通ったことを懐かしく思い出す。
一か月もすると仮勤務が終わり、多くの者が国内外各地に赴任して行った。筆者は、本社勤務となったが、間もなく「岩屋済美寮」への転出が決まったものの、その後も「オリビヤ寮」、「柳田済美寮」を転々とした。
当時は、会社の発展期で次々に店員や見習員が増え、寮の増設が間に合わず、ついに柳田家の敷地内の別棟を急遽独身寮とし5名ほどが入居した。"済美寮"に長く起居した同期の会「午鈴会」は、今でも会合を開き、古きよき時代を懐かしんでいる。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
前号(第12号)に続き、インドネシア・スラバヤ(ジャワ島)に約5年間駐在した筆者が、余暇を庭球やゴルフ、乗馬など楽しく過ごした駐在生活を懐かしむ反面、第二次世界大戦時にボルネオの日沙商会に赴任し、終戦時にはテゴラの水銀鉱山開発を最後に想像を絶する体験を経て祖国に生還したことを述懐しています。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)