辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑲「第19号」をご紹介します。
2021.5.19.
たつみ第19号は、昭和48(1973)年8月10日に発行されました。第13回辰巳会全国大会が同年5月17日、京都白沙村荘において202名の参加のもと開催されました。(下記の関連資料をご覧ください。)
鈴木商店の後継会社・日商岩井は、順調に業績を伸ばし大手総合商社の売上高第5位を占め、この程東京本社が赤坂の新築ビルに移転し、新社屋の披露が行われました。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
◇「鈴木商店のゴム事業」足立宇三郎
「たつみ第5号(昭和41年7月発行)」に「鈴木商店と再生ゴム」と題し投稿した筆者による鈴木商店のゴム事業についての続編で、前号では触れられていない"鈴木商店のゴム事業に進出した経緯"やゴム事業の中核を担った「日沙商会」の誕生、日沙商会ゴム工場での自転車用タイヤ、チューブの製造から「日輪ゴム工業」に、ファイバーの製造から「東洋ファイバー」に発展したいきさつを綴っています。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「たつみ春秋抄 宇治川の先陣(第三話)」黄旗亭(木畑竜治郎)
大正7(1918)年7月12日夜半、東川崎町宇治川の鈴木商店本店は、米騒動による焼打ちにより一瞬にして灰燼に帰した。ボンさんとして鈴木に入社し、焼打ち当時は本店保険部に在籍していた筆者が、焼打ちから瞬く間に本店仮社屋を建設し、復旧に立ち上がった様子を記しています。
焼き出された当時、各事業部は、市中各地に分散して事業活動を開始。同時に焼打ち翌日から焼き跡に建屋の建設に着手し、わずか12日間で仮社屋が出来上がった。神戸新聞、又新日報両紙は、「宇治川の焼け跡に、鈴木商店は仮建築ながら12日間で営業所を新設し、流石に気の早い神戸っ子もアッと目を見張った・・・」と伝えた。(「たつみ第10号」"川崎町の思い出"ご参照)
「平家物語」にその昔、源義経が木曽義仲と争った宇治川の合戦での先陣争いになぞらえ、焼き跡での仮社屋から鈴木商店が黄金期を迎え、全国制覇に乗り出したと振り返っています。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「断末魔に喘ぐサクラビールの想い出」山岡弥之助
帝国麦酒(後の桜麦酒)に在籍し、同社門司本社、大阪支店長を務めた筆者が、同社の資金繰り悪化から連日のように特約店を訪問してビールを担保に現金を集める苦しい日々を過ごした。鈴木商店との間で振り出した融通手形の決済のための資金繰りに追われる毎日だった。
いよいよ自力ではどうにもならなくなり、同社幹部と共に柳田邸を訪れ、金子直吉翁ほか首脳陣に窮状打開を訴えたが、金子より解決策を得られず、神戸を後にした。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)*筆者は、サクラビールに勤務したと記しているが、帝国麦酒が「桜麦酒」に名称を変更したのは、昭和4(1929)年のこと、昭和2(1927)年1月、上神し窮状を訴えた当時は帝国麦酒時代。
昭和35(1960)年、作家藤本光城が著した「松方・金子物語」は、松方幸次郎・金子直吉両パイオニアの生涯を通じての友情物語であり、近代都市神戸の発展史でもある。
辰巳会主催により会報「たつみ」編集人・柳田義一が著者・藤本光城、評論家・小倉敬二の二人を招き、松方、金子両氏の人となりや、同書の刊行のいきさつ等について座談会形式で意見交換した記録を公開。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)*同座談会の開催日について、文末に昭和32年8月9日とあるのは、昭和35年の記載誤りと思われる。
◇追悼:会員の逝去が相次ぎ、故人を偲ぶ追悼の辞が寄せられた。
「矢野さんの思い出」高教一 / 「矢野会長弔辞」日工(株)八巻信郎
愛媛出身で、17歳で鈴木商店に入社した矢野松三郎氏は、若き日、下関・彦島に建設中の彦島精錬所で働き、矢野氏の同僚であった高教一氏が常に気の合う忘れられない同氏の思い出を語る。
矢野氏は、その後27歳の時、創業間もない「日本工具製作」の(代表取締役)専務に就任した後、第3代社長となり、同社を牽引し、会長として今日の「日工」の発展を見届けた。
大正13(1924)年、日銀総裁、大蔵大臣を歴任した井上準之助等に請われて豊年製油の社長に就任し、同社の発展とわが国の食用油脂産業を牽引。豊年製油中興の祖と称えられた杉山金太郎氏が98歳の天寿を全うした。
大正7(1918)年、鈴木商店に入社するもその後、退社し弁護士開業。以後、政界に転じ、民主党幹事長、国務大臣、厚生大臣を歴任。政界を退いた後には、神鋼商事第3代社長に就任し、再び旧鈴木商店に縁のある企業にて活躍された。