鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑦「鈴木商店の化学事業に多大な貢献を果たした磯部房信(その2)」をご紹介します。
2024.2.22.
明治後期、鈴木商店は北海道、朝鮮から集荷した魚油を直営の魚油精製所で精製して神戸居留地のイリス商会を通じてヨーロッパへ輸出していたことから、金子直吉は大豆油にも注目し、明治40(1907)年頃から安倍元松を主任として大豆搾油の研究をさせていました。
しかし、大豆油の量産化の目途が付けられない状況が続いたため、金子は大豆の一大産地で、満州の玄関口・大連について調査した結果、「満鉄(南満州鉄道)豆油製造所」がベンジン抽出法(ドイツで開発されたベンジンを溶剤とする化学的抽出法で、それまでの圧搾法に比べ圧倒的に優れた技術)により大豆搾油の商業化を試みていることが判明しました。
そこで、鈴木商店製油所兵庫工場の建設(大正4年6月に完成)に目途をつけた磯部房信は金子の命を受け、さっそく大連に赴いて満鉄豆油製造所の買収計画を立案し、帰国後直ちに金子とともに東京で満鉄総裁の中村是公(右の写真)と面談し交渉しました。
その結果、2年間で製造能力を2倍に拡張すること、技術員・職工等は現在の待遇をもってそのまま継続すること、商標(豊年撒豆粕)はそのまま継続すること等を条件として鈴木商店が特許権と製造場を買い取ることとなり大正4(1915)年9月、「満鉄豆油製造所」の経営は鈴木商店に移譲され、鈴木商店大連工場(鈴木油房)となりました。
磯部は金子の命により、鈴木商店大連工場の工場長として長郷幸治を伴って満州(大連市外寺兒溝)へ赴任し、工場の管理・増設に邁進した結果、大連工場の大豆処理能力は日産100トンから250トンへと倍増し、大連工場は大連一の大豆製油工場としてその存在感を示すこととなりました。(下の写真は、鈴木商店が満鉄から引き継いだ頃の大連工場です)
その後、磯部は日本国内に大規模製油工場を建設する計画を金子に進言し、了解を得ると大正5(1916)年7月、清水港の埋立地4.2万坪の内約3万坪を借り受け、大豆油日産500トンの清水工場を建設するため、大連工場長の職を織田信昭に譲って技師数名を引き連れて帰国します。
帰国後、磯部は金子からわずか6カ月の期限付きで清水工場の建設を完了するよう命じられ、当時ブルドーザーなどの建設機械がない中、全員一糸乱れず献身的に働いた結果大正6(1917)年1月30日、実際に6ヶ月で試運転まで完了するという離れ業を成し遂げました。(左の写真は、当時の清水工場です)
なお、この清水工場の建設を請け負ったのは、大正4(1915)年に神戸製鋼所より工場用地拡大のために神戸市脇浜の海面埋立工事を請け負っていた(株)橋本店でした。
※清水工場は、現在もJ-オイルミルズ静岡事業所(静岡工場)として稼働し続けています。
さらに、鈴木商店は大豆油日産250トンの横浜工場(横浜市東神奈川)と鳴尾工場(兵庫県鳴尾村 [現・西宮市] )を建設することとなり、両工場は翌大正7(1918)年3月に完成します。この結果、磯部は清水、横浜、鳴尾、大連の4工場(合計日産1,250トン)を監督することになりました。
当時、日本国内では大豆油日産100トン未満の小規模工場が多く、処理能力が100トンを超える工場は鈴木商店の3工場を含めて7工場に過ぎませんでした。このように、当時の鈴木商店はその規模と能力において圧倒的な地位を占めており、いかにわが国大豆搾油工業の確立に大きな影響を与えていたかが窺えるでしょう。
※平成5(1993)年にホーネンコーポレーションが発行した「ホーネン70年の歩み」には、「後年、私が清水工場に転勤したとき、工場の備品倉庫の整理を行ったら、そこに鈴木商店の分厚いマニュアルがあった。営業、経理、工場運営まで全て書いてあった。これを見るとだれでも仕事ができるようになっており、立派なテキストブックであった。(中略)鈴木商店はしっかりした会社だった」との先輩の思い出話が紹介されており、当時の清水工場の運営・管理の緻密さを窺い知ることができます。
第一次世界大戦が終結すると、反動不況により清水工場を除く3工場が休眠、断続的操業、操業停止に陥る中、鈴木商店の精油部門は大きな転機を迎え大正11(1922)年4月、豊年製油(現・J-オイルミルズ)として鈴木商店から分離・独立しました。
鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑦「鈴木商店の化学事業に多大な貢献を果たした磯部房信(その3)」をご紹介します。