羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑬「羽幌炭砿創立20周年に寄せて(羽幌炭砿鉄道社長 町田叡光)」をご紹介します。
2018.5.26.
羽幌炭砿にまつわる出来事やエピソードを紹介するシリーズの第13回です。
前回に続き、羽幌炭砿が昭和35(1960)年7月10日に創立20周年を迎えるに当たり社内報「石炭羽幌」に掲載された町田叡光社長(写真)の寄稿文をご紹介します。
この寄稿文では、金子直吉が極度の資金窮迫の状態にありながらも羽幌炭砿を創立したこと、創業後も資金難に加え太平洋戦争直前の資材・労働力不足、敗戦後の混乱・不況襲来という「いばらの道」を歩んできたこと、昭和25(1950)年に発生した一大ストライキを機に幹部並びに従業員一同の強烈な愛社・愛山精神が勃興し以後ストのない山として発展してきたこと、未曾有のエネルギー革命に直面し徹底した合理化・技術革新を要求されている同社は、強烈な愛社・愛山精神をもってこれらをなし遂げ得るものと信じていること、などが綴られています。
当時は、石油需要の拡大と貯炭激増により中小炭鉱を中心に閉山が相次いでいましたが、羽幌炭砿は昭和34(1959)年に三菱大夕張炭砿などでしか実施されていなかった「スライシング採炭」(*)を開始し、それまで約70%にとどまっていた炭層の実収率をほぼ100%にまで高めるなど不断の合理化・技術革新が実を結び、ついに昭和36年度の出炭量が長年の夢であった100万トン超え(101.6万トン)を達成します。
(*)炭層を2枚の層に区分して上段の採炭より15~30m遅れて下段を採炭し、上段採炭のときに下盤に厚板を敷いて下段切羽の天盤とする採炭方法
寄稿文の全文は下記の関連記事をご覧下さい。