辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑳「たつみ第20号」をご紹介します。

2021.6.2.

tatsumi20go hyoshi.png たつみ第20号は、昭和49(1974)年1月1日、"辰巳会発会15年周年記念号"として発行されました。表紙を飾るのは、平泉中尊寺の幡頭(バントウ)(拓本)で、中央に華籠(けこ、花びらを盛る器)を持つ金銅造透し彫り天女像が納まっている構図が見えます。(*幡頭 仏堂の柱などに掛けて飾る幡(旗)の上部のこと)

 辰巳会発足15年、辰巳誌20号の節目に当たることから、多くの会員の投稿がありました。

◇「鈴木商店と私」大幡久一

 東京高商(現・一橋大学)出身で大正6(1917)年3月鈴木商店に入社した筆者は、本店「輸出部積出係」に配属され、為替取組みのため、インボイス、為替手形、船荷証券、保険証書等のチェックの仕事に明け暮れた。

 大正7(1918)年8月13日、出張で訪れていた京城(現・韓国ソウル)支店で本店焼打ちの報を聞いたこと、同年11月末シアトルへの短期出張の折、シアトルでは満州や日本からの大豆の輸入で大忙しであったと記す。

 大正11(1922)年、大連勤務となり、支店長・平高寅太郎氏の下で輸出部長となり大連油房の主任を兼務したが、当時張作霖へ小銃二万挺の売り込みのため奉天に乗り込み商談が進んだが、本店から陸軍の反対が強いから商談を中止せよとの指令があったことなど秘められたエピソードを紹介しています。(詳細は、関連リンクをご覧ください。) 

◇「日沙商会時代の思い出」竹崎茂助

 たつみ第18号に「大正時代の神戸製鋼」と題する投稿をした筆者は、明治44(1911)年、依岡省輔、田宮嘉右衛門両氏が取締役として実質の経営を担っていた神戸製鋼所にボンさんとして入社したが、大正11(1922)年、当時の専務で日沙商会社長を兼務する依岡より再度の要請を受けて日沙商会に転籍。同社のゴム部、ファイバー部の販売主任として着任した。

 その後、ゴム部は、日本輪業(現・ニチリン)として分離独立、ファイバー部専業となり三井系の帝国堅紙との合併により東洋ファイバーの設立を実現した。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「合気道礼賛」久琢磨

 神戸高商では相撲部のキャプテンとして活躍、鈴木商店の土佐派を自認する筆者は、作家・城山三郎の小説「鼠」に鈴木商店OBの"久老人"として登場するが、鈴木を中途退社し神戸高商の先輩・石井光次郎の誘いで転職した朝日新聞時代に出会った合気道をこよなく愛する。

 久氏は、植芝盛平が興した"植芝流合気術(合気道)"を習い、八段の段位を得たほか、植芝氏の師・武田惣角を始祖とする"大東流合気柔術"の唯一人の免許皆伝者として、合気道、大東流合気柔術の普及に努めている。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)*久琢磨氏没後、門弟により「大東流合気柔術琢磨会」が結成され、現在も国内外40を超える支部を有して活動している。

◇「たつみ春秋抄~囲碁太平記」黄旗亭(木畑龍治郎)

 "黄旗亭"のペンネームでたつみ誌の常連投稿者の木畑龍治郎氏が、趣味の囲碁を通じて辰巳会の囲碁仲間との心温まる交遊を綴っています。

 昭和39(1964)年4月、辰巳会囲碁部が誕生、日本棋院5段の腕前の橋本隆正氏(太陽鉱工元専務、辰巳会発起人)の尽力で同好の士が集まり、大屋晋三氏が総裁を務める関西棋院を拠点に例会が開かれ、毎回名勝負が繰り広げられた。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

◇「金子直吉学長の思い出」松井タケヨ

 鈴木商店社員の故松井元氏未亡人のタケヨさんが、元氏の生前より聞かされていた金子直吉の人柄について懐かしく思い出されると綴っています。

 金子直吉は、多くの若者を育てたことで知られている。自宅には常に何人もの書生をおき、学費の援助や就職の世話をしたばかりか、鈴木の社員からも金子の薫陶により多数の人材が育ったことから、若者たちは、「金子大学の卒業生だ、自分も金子大学の一員だ」と誇りを持っていたと云う。

 金子の信頼が厚かった北村徳太郎は、後年、金子を評して「金子直吉は大教育者であった。人間形成の土台をよく見て、あいつはこういう風に仕向けろという。えらい教育者であった。」と述懐しています。

 こうした金子の人柄を聞いていた筆者は、「学長の思い出」として投稿されています。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

 

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