辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㉔「たつみ第24号」をご紹介します。
2021.8.11.
たつみ第24号は、昭和51(1976)年1月1日に発行されました。本号には、貴重な写真が数点紹介されています。辰巳会東京支部幹事の嶋内義治氏より提供された「昭和2年の挨拶状」と題する鈴木商店破綻時に全社員宛てに出された通知書です。もう一点は、"黄旗亭"のペンネームで投稿された「たつみ春秋抄 第七話」に掲載された「明治37年11月3日の創立記念日」の記念写真です。お家さん・鈴木よね、(二代目)岩治郎、柳田富士松ほか一部の幹部社員は写っていますが、金子直吉、西川文蔵、鈴木岩蔵のほか古参幹部社員が写っておりません。
◇「(女人のふるさと)鈴木よね刀自」
嘉永5(1852)年、姫路市米田町生まれのお家さん・鈴木よねこそ"不幸に負けず、それをバネにしてたくましくなる人間"と評される。大正7(1918)年の米騒動による本店焼打ち、昭和2(1927)年の鈴木商店破綻にも動ずることなく泰然自若としていた。
神戸の「市民同友会」活動家で戦後派モダニスト詩人と云われる君本昌久が、テレビ番組でお家さんについて語っている。「もののあわれや自然と人生の四季の心を知った女性だ。細やかな心くばりと不動心が個性の強い大集団の"和"を保った。」(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「翰墨図録(かんぼくずろく) 『清風帖』に就いて」
鈴木商店の柱石として金子直吉を支えた名支配人・西川文蔵は、書画に造詣が深く自ら江戸期の著名な書、水墨画、文人画等々のコレクターでもあった。(雑誌「日本研究」に発表された論文『国華にみる古渡の中国絵画』(久世夏奈子著、2013年)に作品の所蔵者として西川文蔵の名が見られる。)西川は、これら収集した貴重な文献を編纂して「清風帖」として明治45年に刊行し、知人に頒布された。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「昭和2年の挨拶状」嶋内義治 / 「嶋内義治君の急逝」広岡一男
鈴木商店函館支店、羽幌炭砿鉄道に勤務し、辰巳会東京支部幹事を務めた筆者が、50年前の若き日、昭和2(1927)年4月、お家さん・鈴木よね名義で鈴木商店全社員に出された会社休業、整理の通知書を50年後の今日、あの日の感銘を再びと披露した。(なお、同氏は、この投稿の後、昭和50(1975)年10月26日急逝された。)(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
大正7(1918)年の本店焼打ち後に建った宇治川(東川崎町)のバラック建て仮社屋時代に入社した筆者は、昭和2(1927)年、海岸通りの新社屋を離れるまでの10年足らずの期間は、殆どが少年期から青年期までの成長期を過ごした思い出に溢れる。
入社後間もなくして「国際汽船」に助勤(出向)を命じられて落ち込んだこと、海岸通りの新社屋に戻り、未成年の同僚仲間 とは、大人の酒宴を真似てキンツバでの宴会を度々開いたこと、登山会主催の淡路島旅行では悪天候をついての帰還、昭和2(1927)年の本店の閉店前日には、"鈴木のような大木が倒れる筈がない"と登山会の仲間と六甲・有馬縦走旅行を決行した等々の思い出を断片的に綴っています。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
辰巳会発起人の一人・十河一正氏の夫人・ヒロ子氏より、大変貴重で珍しい自身の写真の提供がありました。同夫人の独身時代、鈴木商店東川崎町本店に英文タイピストとして勤務していた時の写真で、本店焼打ちの3か月前に撮ったものとのこと。焼打ち当日は、本店が襲われる恐れあるとして早めに帰宅するよう命じられた。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
"黄旗亭"のペンネームで投稿する木畑龍治郎氏が鈴木商店にまつわるエピソードを回想するシリーズ第七話。明治生まれで生粋の大阪人の筆者が入社した当時の鈴木商店には、創業者・岩治郎が身につけた厳しいまでにゆるがぬ商家の伝統が引き継がれ、上方商人の雰囲気やしきたりが残っていた。町家の主筋に倣い大主人には終生"お家さん"と尊敬と親しみを込めて呼んでいた。
鈴木商店の事業の発展に伴い、社屋も創業時から幾度も移転し、本家の住まいも初めは店と住まいが一緒だったが、やがて栄町4丁目の表通りに居を構え、本店も同じ栄町3丁目に移転、鈴木の発展が本格化した。事業拡大に伴い、本店はみかどホテルを買収、本家もやがて須磨に邸宅を構え、鈴木の絶頂期を迎える。
先般、鈴木家の蔵から鈴木商店の貴重な資料や記録が発見され辰巳会世話人の下に届けられた。お家さん直筆の「当座帳」と表する日記帳形式の出納帳、明治30年頃よりの社員の履歴書、誓約書、身元引受書等々、鈴木商店の活動を知る貴重な資料の数々があった。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)