辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㉕「たつみ第25号」をご紹介します。
2021.8.21.
「たつみ第25号」は、昭和51(1976)年8月1日に発行されました。本号の表紙を飾るのは、白鳳期の仏像として知られる長野・善光寺菩薩像の仏頭レプリカです。
本年度の辰巳会全国大会は、大阪万博記念館迎賓館にて「鈴木岩治郎33回忌」、「柳田富士松50回忌」ならびに「辰巳会会員物故者」の法要が同時に執り行われました。また、たつみ誌に作家・城山三郎の特別寄稿がありました。
◇「金子直吉と大正の企業家」城山三郎
鈴木商店焼打ち事件を描いた小説「鼠」の著者・城山三郎が、創業者的企業者としての金子直吉の人間像を分析しています。"戦争景気に乗った悲劇の麒麟児、企業家として人間能力の限界を行く理想像"を残したと、その経営姿勢を評価する。
〇時代より一歩先を読む先見性・・・鈴木商店が一大コンツェルンを形成したのは、樟脳、薄荷などの独占度が高く、高利潤商品を集中的に取り扱ったことから。
〇相場に対する姿勢・・・"投機"に手を出すことを再三戒めている。金子は"いわゆる相場師"ではない。相場に手を出す場合は、「買い」から入れ、短期(ショート)はやらず、長期(ロング)で行け!(極めて穏当な考え;住田正一談)
〇勘に頼らず調査に基づいた行動・・・各事業に専門家を配置、世界各地からの情報収集にはカネに糸目をつけず(大金を投じて電信暗号(コード)を取得、電信料には制限を設けず)
〇金子は創意に富んだ世界的商人と同時に産業資本家でもあった・・・工業立国、天下国家のためという気概
〇金融の壁に阻まれた・・・不労所得にあぐらをかく支配勢力(金融資本)に対する反発が金子の事業拡大一辺倒からの転換に大きな障壁となった。"事業の拡大だけが眼中にあった"ことが命取り。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「船鉄交換・重要日誌」(大正9(1920)年発行「日米船鉄交換同盟史」より)
大正6(1917)年、第一次世界大戦への参戦により鉄材輸出禁止を決めた米国との「船鉄交換交渉」は、政府間交渉が不調に終わり、同年11月に新任大使として着任したローランド・モリスと金子直吉の直接交渉の結果、大正7(1918)年4月「第一回船鉄交換書」の調印に漕ぎつけた。この歴史的な「日米船鉄交換条約」の折衝から条約締結、"日米船鉄交換同盟会解散"までの経緯をまとめた日誌部分が紹介されている。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「全国大会」昭和51年5月14日
本年度の辰巳会全国大会は、大阪万博記念館迎賓館を会場に鈴木岩治郎(二代目)33回忌、柳田富士松50回忌、並びに辰巳会会員物故者の法要から始まった。会員143名の出席の下、祥龍寺菅宗信禅師の読経に続き、鈴木家を代表して高畑誠一氏が、柳田家を代表して柳田義一幹事が謝辞を述べられた。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
日沙商会で活躍し、鈴木商店のゴム事業を牽引した足立氏は、美術品に関心が高く、またたつみ誌にも度々投稿されていましたが、過日84歳の生涯を閉じられた。たつみ誌編集人・柳田義一氏が故人を追悼している。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
◇「ひょうご事件風俗史(米騒動の中で)」サンケイ新聞(昭和51年5月25日)
サンケイ新聞兵庫版に「ひょうご事件風俗史」特集記事として大正7(1918)年の米騒動による鈴木商店焼打ちに係わるエピソードを紹介している。事件当夜、警戒に当たっていた相生橋警察署巡査から剣を奪った暴徒に対峙した上司の巡査部長が、冷静に説得し暴徒より剣を取り戻したという"米騒動"の大事件の中で起こった1カットを取り上げている。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)
"黄旗亭"のペンネームで熱心に投稿される木畑龍治郎氏が、昭和2(1927)年4月の鈴木商店破綻により同僚、先輩等々多くの人々との悲運の袂別以来秘かに抱き続けて来た郷愁は、「辰巳会」の創設により感動的な再会に変わった。この半世紀ほど波乱に満ちた歴史は無いと振り返りつつ、筆者が取り分けゆかりの深い人たちとの壮大な再会を果たしたエピソードを紹介しています。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)