鈴木商店こぼれ話シリーズ㉜「大屋晋三は東京高商の仲間29人とともに鈴木商店に入社した」をご紹介します。
2018.7.21.
明治27(1894)年、21歳の時に鈴木商店に入店した西川文蔵は、「学卒者第一号」と遇されたが、実際には東京高等商業学校(東京高商、現・一橋大学)三年次に学校騒動に巻き込まれて中途退学している。東京高商出身者は西川以後、永らく鈴木商店に入社していない。
一方、地元神戸高等商業学校(神戸高商、現・神戸大学)と鈴木商店とのつながりは、明治40(1907)年卒業の大久保弥十郎の入社から始まった。爾来、毎年数名の卒業生が鈴木商店に就職している。明治42(1909)年に卒業した第三期生の高畑誠一、永井幸太郎の神戸高商コンビが大活躍する大正期に入ると、毎年大量の卒業生が鈴木を就職先に選んだ。昭和2(1927)年の鈴木商店破綻までに入社した神戸高商卒業生は、120名余にのぼり、「高商派」と呼ばれ鈴木の発展を牽引した。
"地元の神戸高商卒業生にとっては、鈴木か、三井かと、恰好の就職先とされていたが、米騒動の大正7(1918)年には、帝大出を一挙に10人採用、また東京高商を卒業した大屋晋三が29人の卒業生を連れ、集団就職している。"と絶頂期を迎える鈴木商店にとって有能な人材確保が喫緊の課題であった。個人商店でありながら、帝大・一橋併せて40人の新卒者を呑む勢いであった。"(城山三郎著「鼠ー鈴木商店焼打ち事件ー」) (写真は、若き日の大屋晋三(帝人・岩国工場長時代))
大正6(1917)年、売上高日本一を実現した鈴木商店への就職を翌年に控えた東京高商の大屋晋三(後に帝人社長、商工大臣、運輸大臣を歴任)の入社にまつわるエピソードが自身の「私の履歴書」に記されている。
『すでに秀才も集まり基礎が固まり、型にはまった窮屈なところにには行きたくなかった。・・・実業の日本に鈴木商店の紹介が出ていた。(略) 私はそこで「ははあ、オレの行くところはここだな」と即座に思った。
級友・中本省三が鈴木の人事主任・中村政雄を知っていたので、中本から手紙を出してもらって、「もし一橋からとる気があるなら、私があっせん役になって何十人でも取りまとめてやろう」と申し入れた。
これから勤める会社は私の反発的な気分を満たすに足る金子直吉という英雄的な番頭が経営する日の出の勢いの鈴木商店である。その上に私は、ここに一橋の卒業生の代表として30人もあっせんして会社に恩を売って入社した』と意気揚々と語っている。(日本経済新聞社「私の履歴書」昭和33年5月連載)
大正5(1916)年から大正10(1921)年の鈴木商店絶頂期6年間の神戸高商からの採用者数は、総数83名に対して、同時期の東京高商からは277名が入社しており、大屋晋三が東京高商生に大きな影響を与えたことは想像に難くない。(因みに大正5年の入社はなく、翌大正6年には、28名が入社、大正7年には大屋晋三が斡旋した30名を含め総勢50名が一挙に入社。以後、大正8年に66名、大正9年に67名、大正10年に66名と毎年、大量に鈴木に入社している。)(一橋大学OB会・如水会会報「会員の職業別一覧」による。2017/5/2調査) 東京高商、神戸高商の両高商出身者が鈴木発展の原動力となった。