当記念館の編集委員が、鈴木商店ゆかりの地を巡る神戸新聞社の取材に同行しました。
2016.3.15.
来年、神戸港が開港150年を迎えるのを機に、4月3日(日)から1年間にわたり、神戸新聞社の鈴木商店の軌跡をたどる連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」がスタートすることにつきましては、当記念館の編集委員会ブログ(2016.3.8)にてご案内しましたが、同紙はこれに先立ち、同紙は1月18日(月)~20日(水)の3日間、神戸・相生・網干(姫路市)の各地に点在する鈴木商店ゆかりの地を巡り、ルポルタージュ形式(*)による取材を実施されました。
この取材に関しましては、当記念館が取材対象となる場所、企業、施設などの選定・訪問スケジュールの作成・取材先のアポイントメント取得などにに協力し、あわせて、記念館の編集委員長・編集福委員長・編集委員らが同行いたしましたので、その時の様子をご紹介します。なお、昨年当記念は連載のためのオリジナル原稿30数回分を同紙に提供する他、この連載企画に全面的にご協力させて頂いています。
(*)神戸新聞社が、鈴木商店ゆかりの各地で当記念館の編集委員長・編集福委員長・編集委員へのインタビューを行い、あわせて、写真・ビデオ撮影を行いました。
■1月18日(月)
●神戸 (9:30~15:30)
神戸市内の鈴木商店ゆかりの施設・場所を取材
※神戸新聞社: 村上早百合論説副委員長、小林由佳経済部長、高見雄樹経済部記者、田中宏樹報道部記者、映像写真部記者(カメラマン)2名
※当記念館: 金野和夫編集委員長、小宮由次編集副委員長、金子直三編集委員、前田勝(双日総合研究所)
①祥龍寺 (9:30~10:00)
神戸市灘区篠原北町にある祥龍寺は、昭和2(1927)年に妙心寺派管長から当寺再建の要請を受けた鈴木よねが、金子直吉、柳田富士松と相談した結果、よねの給与として積み立てていた報酬を全て寄進することにより再興がなった臨済宗妙心寺派の寺です。祥龍寺には、よねの胸像のほか金子直吉・柳田富士松・西川文蔵三の頌徳碑、辰巳会供養塔が建立されています。また、よねの長男・二代目岩治郎の娘婿・髙畑誠一の墓が巨大なよねの胸像に寄り添うように建てられています。
②鈴木薄荷本社 (10:20~11:00)
※先方:和田芳明社長(第7代)、髙畑新一常務
同社設立の経緯、本社ビルの概要、製品の概要、薄荷の用途・将来性等について丁寧にご説明頂きました。
鈴木商店は明治35(1902)年、神戸市雲井通りに直営薄荷製造所を、続いて翌明治36(1903)年に神戸市磯上通4丁目に2つ目の直営製造所を建設し、本格的に薄荷事業に参入します。昭和2(1927)年に鈴木商店が破綻すると、金子直吉の愛弟子・楠瀬正一がその薄荷事業を引き継ぎ、鈴木薄荷合資会社が設立されました。昭和8(1933)年、鈴木薄荷(株)に商号変更して太陽鉱工の関係会社として今日に至っています。現在「鈴木」の名称と「カネタツ」の屋号を唯一継承し、天然ハッカ専業メーカーとしての地歩を築いています。
③日沙商会跡(敏馬神社) (11:10~11:15)
鈴木商店の化学事業の出発点ともいえる東レザーから人絹事業(後の帝人に繋がっていく)およびファイバー事業が実用化されました。ファイバー事業の中心となったのが日沙商会で、敏馬神社に隣接する形で敏馬工場(元・東レザーゴム工場)がありました。この日沙商会敏馬工場からは日本輪業(現・ニチリン)および東洋ファイバー(現・北越東洋ファイバー)が誕生します。敏馬神社は阪神電気鉄道の岩屋駅に近く、古くは敏馬の浦と呼ばれた岬に面し、平安時代の延喜式にも記載されている神戸で最も古い由緒を誇る神社です。境内には江戸時代からの神社周辺の様子が掲示板に記されており、大正初期の日本輪業のゴム工場の遠景写真が掲げられています。
④神戸製鋼所発祥の地(神鋼病院前) (11:25~11:35)
JR神戸線の灘駅からおよそ500m西に神鋼病院があります。病院の入口には「神戸製鋼所発祥の地」と書かれた黒御影石の碑が建っています。神戸製鋼所の歴史は明治38(1905)年に鈴木商店がこの地にあった小林製鋼所を買収し、神戸製鋼所と改称したことから始まります。同社は、明治44(1911)年に鈴木商店から分離独立し、鈴木商店全額出資の(株)神戸製鋼所となります。
⑤鈴木商店本店跡(海岸通) (11:50~12:05)
大正7(1918)年、東川崎町の本店を焼き打ちにより焼失した鈴木商店は、仮社屋の後大正9(1920)年、本店を東川崎町から海岸通に移転しました。場所は現在の京町筋の神戸市立博物館に隣接するカーパークビル辺りです。
⑥鈴木商店本店跡(東川崎町) (12:10~12:25)
鈴木商店は大正2(1913)年、後藤回漕店の後藤勝造が東川崎町(現・神戸市中央区栄町通7丁目1番)に増設した「みかどホテル」新館を買収し、新本社屋としました。「みかどホテル」は建築家・河合浩蔵の設計によるコロニアル風の瀟洒な木造3階建の建物で、大正7(1918)年の米騒動による焼き打ち事件で焼失するまで、鈴木商店本店として同社飛躍の舞台となりました。
⑦神戸市立神港高校(旧・神戸市立女子商業学校) (12:50~13:20)
先方:片岡忠政校長(第18代)
校長室にて、同校に対する鈴木よねの多大な貢献、同校と兵庫商業高校との統合(今春両校は統合し、新たに「神戸市立神港橘高校」が開校します)等についてお話しを伺いました。
同校の沿革史(大正6年~昭和23年までの歴史が毛筆で記されている)、創立100周年記念誌を拝見しました。また、校長室に掲げられている鈴木よねと歴代校長の写真を撮影させて頂きました。
わが国初の公立女子商業学校となる「神戸市立女子商業学校」(現・神戸市立神港高校)は、「女子教育の必要性」を強く感じていた鈴木よねの援助(多額の寄付)により、大正6(1917)年に創設されました。当時の女生徒達は年1回、須磨の鈴木よね邸に招待され、歓待されるのが常だったと伝えられています。
◇次の⑧、⑨、⑩については、NPO須磨歴史倶楽部副理事長・西海淳二氏にご同行頂き、丁寧にご説明を頂きました。同歴史倶楽部理事長・小林善彦氏とはご挨拶・名刺交換のみさせて頂きました。
⑧大本山須磨寺 (13:40~13:55)
須磨寺は、仁和2(886)年、開鏡上人によって建立された真言宗須磨寺派の本山で、正式名は上野山福祥寺。源平ゆかりの古刹として全国に知られています。広大な境内には、本堂、護摩堂、大師堂、三重塔、書院など多数の重宝や史跡があるほか、平敦盛ゆかりの青葉の笛、錦絵や首塚、弁慶の鐘、義経の腰掛の松など源平ゆかりの名刹としても知られています。当寺境内入り口近くに釈迦如来石仏と16体の羅漢石仏が安置されています。これらの石仏は、金子直吉が大正8(1919)年に須磨一の谷の八海山貞照寺に寄進したものです。しかし、阪神・淡路大震災により貞照寺本堂が全壊したため、平成8(1996)年、この須磨寺に移設されました。
⑨須磨 鈴木よね邸跡(現・三菱重工・神戸造船所山畑社宅) (14:30~15:00)
鈴木よねが鈴木商店の絶頂期に神戸市栄町通から移り住んだ須磨町(現・神戸市須磨区若木町)の邸宅は、4,000坪ほどの広大な屋敷で、周囲には月見山、須磨離宮(現・須磨離宮公園)、岡崎財閥の邸宅(現・須磨離宮公園の植物園)などが隣接する東須磨の高台に位置していました。鈴木よねは、晩年までこの屋敷に住みました。現在、屋敷跡は三菱重工業神戸造船所山畑社宅になっています。
⑩須磨一の谷 金子直吉宅跡(現・太陽鉱工社宅) (15:10~15:30)
一の谷は、源平合戦の古戦場の一つで源義経による奇襲「鵯越の逆落とし」で有名な急峻な地形として知られています。金子直吉の住まいは、山陽電鉄本線の山陽須磨駅から須磨浦公園駅に向かう中間点のガードをくぐったすぐ左手、現在の須磨一の谷町2丁目に通じる急坂の登り口の辺りにありました。その後、そこから急坂を上った一の谷公園に隣接する場所に居を移しています。ここは現在、太陽鉱工の所有となって低層の社宅2棟のほか駐車場が設けられています。
■1月19日(火)
●相生 (9:45~15:00)
JMUアムテックと相生市内の播磨造船所ゆかりの施設・場所を取材
※神戸新聞社:経済部長、経済部記者、報道部記者、映像写真部記者(カメラマン)、姫路支社編集部記者(カメラマン)
※当記念館:小宮編集副委員長、金子編集委員、前田(双日総合研究所)
※NPO相生いきいきネットのメンバー・須磨友が丘高校教諭・松本恵司氏には終日ご同行頂きました。
①IHI相生総合事務所 (9:45~10:15)
※IHI相生事業所:荻俊秀事業所長、渡辺昌弘総務部長、佐藤正一総務部課長にご挨拶
播磨造船所が創業50周年を迎えた昭和33(1958)年頃、造船業は日本のリーディング・インダストリーとして躍進。この頃、播磨造船所は設備投資を続けるかたわら、播磨病院・相生球場・陸上競技場・体育館など厚生施設の建設を進めました。相生総合事務所は、造船所の繁栄を象徴するような美しいビルとして誕生しました。右の写真は、昭和33年11月27日、相生総合事務所前に6千余名の従業員が参集して挙行された播磨造船所創業50周年記念式典の様子です。
②JMUアムテック (10:25~11:45)
※先方:山上和政取締役(元・同社社長)、加藤弘志管理部総務経理グループ長
IHIの佐藤総務部課長には、JMUアムテックの玄関口までご同行頂きました。
山上取締役から、かつて播磨造船所にて建造した「EASTERN SOLDIER」と著作「海賊と呼ばれた男」で有名になった出光興産の「日章丸2世」の大変貴重な「一般配置図」(General Arrengement)(*)を「史料館」にて拝見させて頂きました。とりわけ、金子直吉が駐日米国大使のローランド・S・モリスとの直談判の結果、大正7(1918)年に締結された日米船鉄交換協約に基づき建造された船鉄換船「EASTERN SOLDIER」の図面が残っていたことは奇跡的との説明がありました。その他、少数作成され進水式の関係者に配布された貴重な「進水記念絵葉書」他、播磨造船所ゆかりの品々を拝見することができました。
(*) いずれも山上取締役が倉庫に眠っていたものを発見し、その他多数の「一般配置図」とともに特注の専用ラックに保管しておられます。
○JMUアムテック
IHI(石川島播磨重工業)相生が新造船事業から撤退し、平成2(1990)年、船舶を建造していた相生第1工場の開発工作部門と修理部門を統合し、(株)アイ・エイチ・アイ・アムテックが発足しました。同社は、主に船舶の船首ブロックや居住区の製造、海洋環境船の建造・フェリーの改造など高付加価値製品と小型特殊船を建造しており、平成25(2013)年に(株)JMUアムテックに社名を変更しました。現在、同社はジャパンマリンユナイテッド(株)(アイ・エイチ・アイマリンユナイテッドとユニバーサル造船が合併して誕生)の子会社となっています。
③鈴木商店時代の赤煉瓦倉庫 (11:50~12:00)
IHI相生事業所の工場群の北端には鈴木商店時代に建てられた赤煉瓦造りの倉庫が残されています。この赤煉瓦倉庫は、鈴木商店時代に相生に建てられた建築物として唯一現存しているもので、今も建物の上部には、鈴木よねの「米」を象った菱形のマークが大きく掲げられています。鈴木商店の紋章(「米」マーク)が全国で唯一残されている歴史的な建造物と言えましょう。
◇次の④~⑧については、NPO相生いきいきネットのメンバー・須磨友が丘高校教諭・松本恵司氏にご同行頂き、丁寧にきめ細かくご説明を頂きました。
④旭の弁天社(厳島神社) (13:15~)
次の⑤に記述した大本百松は、社宅街のまちづくりに尽力しました。旭の弁天社の鳥居傍の左右にある玉垣には大本百松の名が刻まれています。厳島神社は、鎌倉時代、相模から地頭として矢野荘に赴任した海老名氏が江ノ島の弁天様を勧請したのが始まりとされ、明治時代まで海中に浮かぶ島にある小さな祠でした。
第一次世界大戦中、播磨造船所がこのあたりの海を埋め立てたときに地続きとなります。埋立地に建てられた社宅街の人々は、弁天社を鎮守の森にしようと考え、社殿を建て夏秋の弁天祭りを楽しむようになったといいます。
⑤大本百松翁顕彰碑
大本百松は大本組の創業者。明治40(1907)年に土木請負業を始め、広島県因島にて後に播磨造船の所技師長となる三上英果の知遇を得ます。大正7(1918)年に三上の招請により相生の地に大本組の本店を置きます。ほどなく播磨造船所の指定請負人となる大本百松は薮谷の社宅街の一角に邸宅を構えました。
大正7年、米騒動で鈴木商店本店が焼き打ちされ、鈴木よねが避難していた須磨の屋敷に民衆が押しかけた際に、大本百松は仲間を率いて相生から須磨に駆けつけ、屋敷を守るとともに民衆を説得しました。鈴木よねは大本を高く評価。鈴木商店は投資する発電所等の土木工事を大本組に発注し、大本組は事業を拡大していきました。その後、大本組は昭和8(1933)年に岡山に本店を移し、現在は建築を中心に、土木・海洋土木を含めた全分野をカバーする中堅ゼネコンとして事業を展開しています。昭和52(1977)年、大本組が創業70周年を迎えるに当たり、邸宅跡に大本百松翁顕彰碑を建立しました。
⑥播磨造船所時代の社宅・商店街
鈴木商店による播磨造船所の拡張によって、鈴木商店が買収する直前の大正5(1916)年3月に252名であった従業員数は、大正8(1919)年12月には6,372名にまで増加しました。そのうち半数以上は、長崎・呉など他の町からの移住者でした。造船所は従業員の定着を図るため、相生の各地に社宅を建設しました。中でも、薮谷は最も大規模な社宅街で、一小学校区にあたる社宅街が出現しました。
播磨造船所は、社宅の中央にある通りに売店組合を設け、テナントを募集。本町売店組合からスタートした「ほんまち商店街」は、播磨造船所の盛衰とともに盛衰をくり返し、高度経済成長期には相生を代表する繁華街となりました。
⑦大正時代の播磨病院跡
鈴木商店は、海や田畑を埋め立てて大規模な社宅街を建設し、大正6(1917)年、その一画に播磨造船所附属薮谷医院が開院。大正11(1922)年には播磨病院となり、現在に至るまで、西播磨有数の病院として地域の医療に貢献しています。大正11年に開院した頃の播磨病院は、本町通り(現・コープ中央店)にありました。昭和33(1958)年、現在地に新築移転し、平成22(2010)年に新病棟・診療棟が竣工します。なお、現在の播磨病院の南側には、播磨造船所が大正時代に中堅幹部社員の住宅として建設した弁天社宅が残されています。
⑧相生市立歴史民俗資料館 (~15:00)
※先方:桑本副主幹
歴史民俗資料館は、2階には古代から近世まで千年にわたる矢野荘の歴史が展示され、1階には播磨造船所とともに近代化をすすめた百年の歩みが展示されています。歴史民俗資料館では、鈴木商店という一企業の積極的な投資が、中世の荘園を現代都市として甦らせたプロセスを学ぶことができます。
左端の人物が、播磨造船(株)の買取と拡張を金子直吉に要請した、相生の大恩人と言われている相生(おう)村長・唐端清太郎です。
左の写真は大正7年頃の藪谷社宅、右の写真は昭和36年当時の「本町商店街」の様子です。
◇ペーロン競漕について
日本におけるペーロン競漕は、明暦元(1655)年5月、長崎に来航していた中国船が船神に風の鎮静を祈って行ったことに始まります。大正時代、播磨造船所には長崎から多くの従業員が移ってきました。大正11(1922)年、造船所の長崎県人会が故郷を偲んでペーロン競漕を提案したことからこの地でも行われるようになりました。戦前のペーロン競漕は、造船所の海上運動会として5月27日の海軍記念日に行われていましたが、現在は、播州路に初夏を告げる一大イベント「相生ペーロン祭」の海上行事として5月の最終日曜日に行われています。現在のペーロン船は、長さ12m、巾1.58mで艇長1名、舵取1名、太鼓1名、ドラ1名、漕手28名の計32名が乗り込み、漕手は艇長の持つ采配の指揮に従い、ドラと太鼓の音に合わせて力漕します。市内外から出場する多くのチームの間で激闘が繰り広げられ、未来の漕ぎ手となる子どもたちを育成する取り組みもなされています。
■1月20日(水)
●網干(姫路市網干区新在家) (9:45~12:00)
ダイセル姫路製造所網干工場(旧・日本セルロイド人造絹糸網干工場)取材
※ダイセル:廣川IR・広報室室長他2名
廣川室長は、この日のために東京からお越し頂き、同社・網干工場のパンフレットに基づき丁寧にご説明頂き、工場の構内も室長自らご案内頂きました。
※神戸新聞社:論説副委員長、経済部長、経済部記者、報道部記者、映像写真部記者(カメラマン)
※当記念館:小宮編集副委員長、金子編集委員、前田(双日総合研究所)
①ダイセル異人館
異人館は、明治40(1907)年の網干工場設立当時、イギリス、ドイツ、スイスから5人の技師を招き、技術者の宿舎として建設されました。本館は、通天閣を設計した当時関西で5本の指に入る設楽貞雄によるもので、当時は海辺が埋め立てられる前であり、リゾート地の別荘のような趣があったと思われます。資料館内には、セルロイドの歴史、キューピー人形、メガネなどセルロイド製の日用雑貨品が展示されています。この異人館は、②の衣掛クラブとともに、昭和62(1987)年10月、兵庫県により「ひょうご住宅百選」に、平成元(1989)年7月、姫路市により「都市景観重要建築物等」に、平成21(2009)年2月、経済産業省により「地域活性化に役立つ近代化産業遺産」にそれぞれ指定・認定されています。
②衣掛クラブ
赤い屋根が特徴的な衣掛クラブ別館。この建物も外国人技師のために建設されたもので、現在はダイセルの迎賓館となっています。クラブ本館には初代社長である近藤廉平直筆の掛け軸『工化之妙無窮』が展示されています。明治42(1909)年に書かれたものであり「化学工業の不思議さ、素晴らしさは窮まりない(=極まりない)」という意味です。
③セルロイド製造試験機
セルロイド独特の柄を創作するのに用いられる加圧用の試験機。隣のパネルにはこう記されています。
「創業の精神に誓う 明治41(1908)年、この網干の地に、三菱・岩井商店・鈴木商店の出資により、日本セルロイド人造絹糸株式会社が設立された。我が国セルロイド、ひいては化学工業の本格的工業化時代のさきがけをなすものであり、当時は、当社並びに日本のものづくりの原点ともいえる場所である。先輩諸氏から脈々と続く、ものづくりの系譜がここにある。(後略)」
④ 1号ボイラー
明治42(1909)年に、日本セルロイド人造絹糸網干工場に建設された煉瓦造りの石炭ボイラー。ずんぐりとした太く短い赤煉瓦の煙突が特徴です。現在もダイセル姫路製造所網干工場の特高受電施設として使用されていますが、かなり老朽化が進行している模様です。
他にも当時の煉瓦造りの建物が何棟か残されていますが、一部補修の上使用を継続しているものを除き、取り壊されることも否定できない状況にあるとのことでした。
<後記>
1月18日(月)~20日(水)の3日間、当記念館は神戸新聞社の取材のすべての行程に同行いたしました。かなりのハードスケジュールに加えて強力な寒波襲来を受け降雪もありましたが、すべての取材活動が事故もなく、スケジュール通り完璧に終えることができましたこと、当記念館といたしましては大変満足し、かつ安堵しております。なお、実際に同行してみて、同紙のプロジェクトチーム(5~6名体制・内カメラマン1~2名)のこの連載企画に対する並々ならぬ意気込み・覚悟を感じ取ることができました。その後、同紙は、鈴木商店ゆかりの企業のトップ・役員の方々へのインタビューを実施されました。(一部の企業は、近日中に実施予定) 4月3日(日)から始まる鈴木商店の軌跡をたどる連載の開始がますます楽しみになってまいりました。
今回の取材で訪れた、鈴木商店ゆかりの各地の詳細につきましては、次の地域特集のページを覧下さい。