辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㉜「たつみ第32号」をご紹介します。

2022.1.29.

たつみ第32号表紙.png 「たつみ第32号」は、辰巳会創立20周年に当たる昭和55(1980)年1月1日に発行されました。本号には珍しい写真が二点紹介されています。一点は、昭和54(1979)年10月25日に高松宮殿下が、太陽鉱工(株)赤穂工場に完成した使用済触媒から金属を回収する再資源化工場を見学された写真、もう一点は、昭和19(1944)年2月27日、神戸市葬儀場で執り行われた金子直吉の告別式に臨んだ親族および鈴木商店関係者の記念写真でいずれも貴重な記録として残されています。(下記の関連資料をご覧ください。)

◇「辰巳会創立二十周年回顧」大幡久一

 本年は、辰巳会創立20周年に当たり、辰巳会幹事を務める筆者は、毎年開かれる同会全国大会を通じて強く脳裏に残る数々のエピソードが思い浮かぶと云う。

 中でも昭和45(1970)年5月7日の辰巳会創立10周年記念大会では、250名近い辰巳会会員の出席を得て「お家さん33回忌」並びに「岩治郎27回忌法要」が執り行われたこと、昭和50(1975)年5月15日の全国大会では、西川支配人の頌徳碑の建立に当たっては建設委員長を務めた筆者が碑文揮毫を行ったこと等々を懐かしく思い出す。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「鈴木商店の思い出(2) 神戸本店時代」中村元義

 大正3(1914)年、ボンさんとして鈴木商店に入社間もなく、大里(門司)の焼酎製造会社「大里酒精製造所」に配属となり3年間の勤務の模様を前号(たつみ第31号)に記した筆者は、大正6(1917)年再び神戸本店に転任となり、約1年間の本店(東川崎町)勤務を振り返っている。

 みかどホテルを改修した宇治川の本店では、「倉庫部」に配属となり、関係会社の「日本商業」が輸入し、各紡績会社へ納めている綿花の受け渡し業務が主な仕事。営業倉庫内で立ち込める綿埃が治まるのを待っての"看貫"(計量)作業に明け暮れたが、当時は輸入貨物激増しており、鈴木といえども船腹の確保に苦労していたことを知った。

 折しも"日米船鉄交換交渉"が妥結に漕ぎつけ、その説明会の会場で間近に聴衆の中の金子専務に接する機会があったのは忘れられない。神戸本店での仕事にも慣れた頃、横浜支店への転任を命じられた。(詳細は、関連リンクをご覧ください。) 

◇「私の会った人"高畑誠一さん"」湯木貞一

 高級料亭「吉兆」の創業者の筆者が、昭和54(1979)年6月26日の朝日新聞のコラム「私の会った人」に"高畑誠一"について投稿。「吉兆」創業時から筆者を支え、個人的にも殊の外親しく、茶会席料理から茶道具に至るまで造詣の深い高畑誠一との交遊をその人となりと共に綴っている。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「航空部秘史 二つの殉職事故」久琢磨

 鈴木商店の土佐派のリーダーとして金子を支えて来た筆者は、鈴木破綻に際して金子が責任辞職に追い込まれことから会社にいたたまれない事態に追い込まれ、鈴木を去った。(たつみ第31号「鈴木商店退社の声明書」より)郷里の知人の伝手を頼り大阪朝日新聞に転職した筆者は、昭和7(1932)年、庶務部長の要職と同時に航空部次長を兼任していた。

 両部署の役職在任中に同新聞社の運航する自社機の重大事故に二度遭遇した。一度目は、戦前、満州国承認祝賀訪問飛行の直前に起こった原稿空輸機の消息行方不明事故、二度目は、昭和14(1939)年、欧州動乱の写真原稿、映画フィルムの空輸機の遭難事故でいずれも遭難捜査の陣頭指揮を執った悲しい体験を綴っている。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

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