辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㊳「たつみ第38号」をご紹介します。

2022.6.27.

たつみ第38号表紙.png 「たつみ第38号」は、昭和58(1983)年1月1日に発行されました。本号には、京都大学名誉教授を務めた吉田文武氏の投稿があり、米国MITを卒業した鈴木商店の鈴木岩蔵氏は、化学工学を学んだ最初の日本人だったこと、また京大の"化学工業科"創設に際して岩蔵氏に助言を求めた等の大変興味深い秘話が明かされました。

◇「富士松さんと直吉どんの事ども」鈴木岩蔵

 鈴木岩治郎・よね夫妻の三男で鈴木商店および鈴木系企業の経営に携わった筆者が、物心ついた幼少時より"富士松さん"、"直吉どん"と呼び馴れた柳田富士松、金子直吉の両者にまつわるエピソードや思い出を綴っている。

 柳田、金子両氏の鈴木家に対する並々ならぬ忠誠心、忠実さは、終生変わることがなかったと述懐している。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「薄田泣菫の随筆に出る金子・柳田の若い頃」

 明治~昭和の浪漫派詩人・随筆家の薄田泣菫の随筆「猫の微笑」(昭和2(1927)年5月)に"釜屋の老人"という章があり、「柳田富士松伝」にこの"釜屋の老人"が転載されていると、そのエピソードを紹介している。

 名古屋の「釜屋」なる今日の"不用品買い取り業者"の主人・水野安兵衛(釜屋の老人)と金子直吉、柳田富士松との商売人同士の厳しいやりとりを軽妙な表現で再現しており、明治中葉の商人気質を捉えている。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「化学工学を学んだ最初の日本人」吉田文武

 元京都大学名誉教授の筆者が、"京大化学工業教室の歴史"を調べる過程で興味ある史実を確かめたという。同大の化学工業専門の講座(「化学工業科」の前身)が設けられたのは、東大、九大に先駆けて京大が最初であったが、この講座創設のきっかけとなったのは、米国に留学し、化学工学を学んだ鈴木商店の御曹司・鈴木岩蔵氏のアドバイスによるものであったとのこと。さらに岩蔵氏は、明治45(1912)年、米国"インスティテュート ・オブ・テクノロジー(MIT;マサチューセッツ工科大学)を卒業し、学士号を得ており米国で化学工学を学んだ最初の日本人であることの確証を得たと記している。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「震災と鈴木商店」柳田義一

 若き日、金子直吉の秘書を務めた筆者が、関東大震災(大正12(1923)年9月1日)の時、いち早く金子直吉と川崎造船所・松方幸次郎が救援船を東京に送ったことは、二人が企業の社会的責任を負うという気概を感じるとし、米騒動による鈴木商店本店焼打ち事件の際の苦い体験からの発想転換だったと振り返る。(詳細は、関連リンクをご覧ください。) 

◇「帝人を甦らせた"意外な力"」(大阪新聞)

 昭和57(1982)年8月27日付大阪新聞コラムに帝人・徳末社長の奮戦記が掲載された。"帝人大屋後遺症乗り切る"と題し、帝人の復活に奮闘する徳末知夫氏にまつわるエピソードが紹介されている。

 超ワンマン社長・大屋晋三の後を継いで昭和55(1980)年、帝人社長に就任した徳末氏は、副社長時代、合繊業界未曽有の不況から、大屋社長による大量の人員整理の敢行に対し、社長の経営責任を求め、徳末氏を含む三人の副社長が辞表を提出して大屋社長の退任を迫った。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

兵庫に二つの博物館(「兵庫県立歴史博物館」「神戸市立博物館」)がオープン

 兵庫県の歴史展示と姫路城を始めとする日本全国の城郭の紹介のため、姫路城址内に設けられる「兵庫県立歴史博物館」は、建築家・丹下健三の設計により昭和58(1983)年9月の開館の準備が進んでおり、このほど同博物館館長に甲南大学名誉教授・和田邦平氏が就任した。

 一方、神戸旧居留地にあった旧横浜正金銀行・神戸支店ビルを転用し、旧市立南蛮美術館と考古館を統合して昭和57(1982)年に人文科学系博物館として「神戸市立博物館」が開館。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

 

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