鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑦「鈴木商店の化学事業に多大な貢献を果たした磯部房信(その4)」をご紹介します。
2024.3.13.
大正2(1913)年、空気中の窒素と水素ガスから、平時には肥料、染料、医薬品を、戦時には火薬が製造できるアンモニアを工業的規模で空中窒素固定法により直接合成するという人造絹糸の製造技術とともに当時の革新的な最先端技術として並び称された「ハーバー・ボッシュ法」(空中窒素固定法の一種)がドイツで企業化されました。
わが国は第一次世界大戦の長期化に伴い合成硫安の輸入が途絶する一方、化学肥料の需要は増加していたため、肥料として、また軍需火薬として無限の可能性をもつアンモニア合成法をなんとかわが物にしようと、政府そして民間企業が血眼になっていた最中の大正10(1921)年、金子直吉はフランスの発明家・ジョルジュ・クロード(右下の写真)により開発されたクロード法によるアンモニア合成技術を視察するため磯部房信をフランスに派遣しました。
その後、鈴木商店ロンドン支店長の高畑誠一が入手した情報から、クロード法の特許権をフランスのレール・リキッド社が保有していることが明らかになったことから、金子は他社に先駆けるべくゴーサインを出し、鈴木商店は同法の特許使用権を50万ポンドで購入しました。
鈴木商店は最優先でアンモニア合成工場建設の準備を進め大正11(1922)年4月、クロード式窒素工業が設立されました。取締役会長には海軍中将・伊藤乙次郎、専務取締役には長崎英造、取締役に藤田謙一、村橋素吉、織田信昭、監査役に依岡省輔、金光傭夫、技術監督には磯部房信が就任し、鈴木商店の錚々たる幹部・技術者が名を列ね、鈴木商店がこの事業に対して総力をあげて取り組んでいたことが窺えます。なお、このプロジェクトの推進役は技術監督の磯部が務めました。(後に磯部は同社の専務取締役に就任します)
翌大正12(1923)年7月、同社は関門海峡に面した鈴木商店傘下の日本金属彦島製錬所構内(山口県豊浦郡彦島町字西山)に約7,000坪を借り受けて試験工場を建設し大正13(1924)年12月、わが国最初の1,000気圧という超高圧利用による合成アンモニアの試験的生産に成功しました。(下の写真は、クロード式窒素工業の彦島工場です)
大正15(1926)年、工場がようやく生産が軌道に乗ってきたことから、クロード式窒素工業は特許権を保有する会社(持株会社)となりました。同年6月には新たに第一窒素工業が設立され、同社に彦島工場の運営が委ねられることとなり、同社の代表取締役には磯部房信、専務取締役には辻湊が就任しました。
クロード式窒素工業から経営を引き継いだ第一窒素工業は従業員一同団結して懸命に努力した結果、技術力も向上し、安定経営に向かおうとした矢先の昭和2(1927)年4月2日、親会社の鈴木商店が経営破綻を余儀なくされ、抵当に入っていた彦島工場は台湾銀行に差押えられました。
第一窒素工業はたちまちにして運転資金・改造資金不足に陥り、工場の運営は困難の極みに達し、磯部は三井系の電気化学工業の常務取締役、日比勝治の門を叩き、当時三井の化学部門の責任者であった三井鉱山の常務取締役・牧田環(後・三井鉱山会長)へのとりなしを打診しました。
一方で、鈴木商店の破綻を機にクロード式窒素工業の株式を取得したメインバンクの台湾銀行が、三井合名に対し同行の管理下に移った同株式の引受けを申し入れた結果昭和4(1929)年1月、三井鉱山がクロード法の特許使用権と、彦島工場(彦島製錬所を含む)を合わせて買収することとなりました。
この買収に際し、磯部を始め織田信昭、二階堂行徳らの技術者は三井に残りましたが、残る一部の者はこれを潔しとぜす、袂を分かって住友肥料製造所(後・住友化学工業、現・住友化学)へ移りました。
結局、この買収が三井側にとっては三池窒素工業の設立、ひいては東洋高圧工業(現・三井化学)の設立となって結実します。
鈴木商店が起死回生の事業としてフランスから導入したクロード法によるアンモニア合成技術は、彦島工場において高圧化学技術、化学プラント製作技術として確立され、東洋高圧工業他の母体技術となるとともに、そこで育った多くの技術者がわが国の近代化学工業・重化学工業の発展に大きく貢献するとともに近代的装置の国産化にも大いに寄与することになりました。
※上の写真は、クロード式窒素工業の工場のかつての所在地である下関三井化学の工場内に建てられた「我国安母尼亜合成工業発祥之地」の石碑とアンモニア分離機です。
磯部房信は昭和39(1964)年8月8日に帰らぬ人となりましたが、辰巳会の会報「たつみ」第2号(昭和39年12月1日発行)の小川実三郎(*)の寄稿文「磯部房信君の足跡」の中で、小川は磯部の為人について次のように記しています。
(*)金子直吉の有名な書簡「天下三分の宣誓書」を鈴木商店ロンドン支店の高畑に届けた人物、後に日商(現・双日)監査役、日輪ゴム工業社長
「君は鈴木の事業中でも特に先端を行く新進新鋭事業と自ら進んで取組み、幾多の隘路を打開し、遮二無二目的を達成させるその勇往邁進振りは常人には一寸できないものであった。アメリカ育ちで物事を処理するに当たっても徒に左顧右眄することなく単刀直入これに向うので、時に周囲の人から誤解を受けることもあったが、その手腕と見識は実に尊敬す可きものがあった。君はまたなかなかの策士でありながら、普通策士につきものの陰険さは微塵もなかった許りか、実に明朗闊達な気持ちのいい人だった。」(上の写真は、昭和34(1959)年に恩師二人とともに母校インディアナ大学の化学研究室を視察した時のものです。画像提供:Indiana University Archives)