鈴木商店こぼれ話シリーズ㉕「鈴木商店本店は4度移転」をご紹介します。
2018.3.18.
明治7(1874)年、鈴木岩治郎が大阪の有力な砂糖商「辰巳屋恒七」の弁天浜(現在の神戸市中央区弁天町)の神戸出張所を暖簾分けで譲り受けて「辰巳屋(商標・カネ辰)鈴木商店」を創業。爾来、昭和2(1927)年に経営破綻するまでの約50年間、鈴木商店は業容の拡大に伴い、仮社屋の時代を除きその本店を4度移転するも一貫して神戸・栄町通を中心に拠点を構えていた。 (写真は東川崎町の鈴木商店)
1.創業時代:弁天浜(明治7(1874)年~?) 開港間もない兵庫港に近い新興"神戸村"の開港景気を見込んで弁天浜に出張所を設けた辰巳屋でその才覚を認められ、独立した鈴木岩治郎は、香港車糖、欧州甜菜糖などの洋糖の取扱いにより糖業界へ華麗なデビューを果たした。
2.個人商店時代:栄町通4丁目(明治?年~明治35(1902)年) (最初の移転) 神戸・弁天浜で創業した鈴木商店が、個人商店として本格的に始動するため拠点を置いたのが栄町通4丁目であった。瓦葺木造2階建ての社屋のある栄町通には、明治43(1910)年には市電が開通、銀行、証券会社、保険会社の洋風で重厚な建築が軒を連ね「東洋のウォール街」と呼ばれる程の繁栄を誇った神戸の経済の中心地であった。
3.合名会社時代:栄町通3丁目(明治35(1902)年4月1日~大正5(1916)年2月5日) (2度目の移転) 神戸・栄町通4丁目に拠点を設けた鈴木商店は明治35(1902)年、個人商店から合名会社に改組して、「合名会社鈴木商店」が誕生する。代表社員・鈴木よね、社員・金子直吉、柳田富士松の布陣で鈴木商店が始動する。合名会社を機に本店社屋を栄町通3丁目に移転した。
元々は横浜正金銀行・神戸支店として建てられた建物(明治13(1880)年)で、レンガ造り2階建ての洋風建築。(「松方・金子物語」より) その後同建物は、三菱合資(銀行部)(明治30(1897)年4月)、鴻池銀行・神戸支店(明治33(1900)年12月)を経て、明治37(1904)年4月1日より鈴木商店の新社屋となった。
なお横浜正金銀行は、これに先立つ明治27(1894)年、山口半六設計による神戸支店ビルを旧建物の向い側の栄町通3丁目27番地に建設し、移転営業している。
栄町通3丁目には、通りの両側に三十四銀行、三十八銀行、三井銀行、北浜銀行、横浜正金銀行、浪速銀行、日本貿易銀行等各銀行神戸支店、明治火災保険、帝国興信所、岡崎汽船など金融・ビジネスの中心地として栄えた。
4.東川崎町時代:東川崎町(現・栄町通7丁目)(大正5(1916)年2月6日~大正7(1918)年8月12日)(3度目の移転) 神戸・栄町通を拠点に業容が拡大した鈴木商店は大正5(1916)年、後藤回漕店・後藤勝造が東川崎町に増設した「みかどホテル」新館を買収し、新社屋とした。(大正5年2月6日付移転広告 神戸又新日報)
みかどホテルは、建築家・河合浩蔵の設計によるコロニアル風の瀟洒な木造3階建ての建物で、大正7(1918)年の米騒動による焼き打ち事件で焼失するまで、鈴木商店の本店としてその飛躍の舞台となった。
5.海岸通時代:旧居留地海岸通(大正9(1920)年~昭和2(1927)年) (4度目の移転) 大正7(1918)年、東川崎町の本店を焼き打ちにより焼失した鈴木商店は、仮社屋の後、大正9(1920)年より海岸通(旧居留地海岸通)に移転した。
神戸の海岸通には、2区画の海岸通が存在する。一つは旧居留地の南端にあり、旧居留地の中の海岸通と、もう一つはその西に延びる海岸通1~6丁目の東西に細長い区域で栄町通に続く通り。鈴木商店が移転したのは、旧居留地の海岸通と呼ばれる場所で、現在の京町筋の神戸市立博物館(旧神戸居留地24番館(旧横浜正金銀行神戸支店ビル))に隣接するカーパークビル辺りである。その敷地の大きさから当時の鈴木本店建物の威容が偲ばれる。