辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㊷「たつみ第42号」をご紹介します。

2022.9.9.

たつみ第42号表紙.png「たつみ第42号」は、昭和60(1985)年1月に発行されました。たつみ誌恒例の"辰巳会会員長寿番付表"(昭和56(1981)年正月現在)によれば、会員総数は256名が記されています。 

◇「私の履歴書」豊田英二

 トヨタ自動車工業・第5代社長、トヨタ自動車・初代会長を務め、トヨタグループ中興の祖と呼ばれる豊田英二による日経新聞「私の履歴書」は、昭和59(1984)年9月18日から同10月15日まで28回に亘って連載されましたが、10月2日付の掲載記事を本号に転載しています。

 同記事では、トヨタ、日産、フォード三社による合弁構想が自然消滅した裏話を明かしているが、冒頭、筆者の若き日の結婚にまつわる秘話を紹介しています。

 英二氏の夫人は、鈴木商店名古屋支店長を務めた高橋半助の長女・寿子(かずこ)氏で、見合いにより昭和14(1939)年に結婚した。義父の半助は、鈴木破綻後も名古屋に留まり、事業を興していた由。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「鈴木商店と我が故郷」北野浅美

 北九州門司・大里の生まれで、自身の親族、知人の多くが地元の鈴木系企業に勤務していたと云う筆者は、大正15(1926)年3月30日、帝国麦酒に入社し東京勤務となった。

 大里の海岸沿いには、鈴木系の大工場群(大日本塩業*、日本酒類醸造、大里製粉所、大里製糖所、帝国麦酒)が建ち並び、そこで生まれ育ち憧れの帝国麦酒に入社後、わずか1年で鈴木破綻に遭遇。最後の鈴木の新入社員となった。帝国麦酒は、桜麦酒となり、昭和18(1943)年10月、大日本麦酒に吸収合併されることになり、サクラビール(桜麦酒)最後のバランスシートを作成したことは忘れられない。(*原文では日本塩業と記述)(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「日銀より鈴木商店に転ず」門室寿人(遺稿)

 明治42(1909)年、神戸高商(現・神戸大学)3回生(3期生)として鈴木商店に就職した高畑誠一、永井幸太郎、亀井英之助等と共に卒業した筆者は、日銀に就職したが、大正6(1917 )年2月、鈴木商店に転職、亀井と同じ鉱山部に配属された。

 入社早々の4月、岡山県福渡・江興味鉱業所へ出張を命じられ、"財的看視"(事業の実現性、採算性の調査;F/S)の特命で当初の2週間の予定が9月末までの5か月に及び、山奥で山師の下での最低の鉱山生活を経験したのち下山、ロンドン行きの機会を得て10月23日、北米経由の日本郵船の豪華客船によりニューヨークに向けて出港、ニューヨークにて客船を乗り換え、12月初め渡英の途に就いた。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「毎日新聞"ラウンジ"」(昭和59(1984)年9月22日)

 昭和59(1984)年9月22日付「毎日新聞」のコラム"ラウンジ"が伝えるところによれば、旧鈴木商店を源流とする帝人、神戸製鋼所、日商岩井の3社は、各社トップによる親睦組織「鈴和会」によりその結束を強めようと動き出したと云う。

 元々、旧鈴木系3社トップの集まり「三鈴会」が、あったが、有名無実化していたものを衣替えして、三社による事業の協同化を図ろうとするもの。(詳細は、関連リンクをご覧ください。) 

◇「辰巳会会員の便り」

 前号より始まった「辰巳会会員の便り」コーナーでは、50余名の辰巳会会員・準会員の動静を伝えている。辰巳会例会への出欠確認では、殆どが高齢により足腰が弱り遠出ができない旨の近況が記されている。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

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