「大日本塩業(現・日塩)の歩み⑤」を掲載しました。
2021.11.16.
「大日本塩業」(現・日塩)の歴史を紹介する5回目です。
大日本塩業は、鈴木商店が経営破綻した昭和2(1927)年に横浜正金銀行の管理下に置かれましたが昭和9(1934)年、太陽曹達(鈴木商店を源流とする天然ソーダの輸入販売会社、後・太陽産業、現・太陽鉱工)と日商(後・日商岩井、現・双日)が横浜正金銀行から同社株を取得し、両社による同社の持株比率は50.4%に達しました。
当時の日本は、昭和6(1931)年の満州事変、昭和12(1937)年の日華事変を経て太平洋戦争へと突き進んでいく途上にあり、経済統制を始めとする戦時体制が強化されていきました。
国際情勢が緊迫の度を加えていくに従って、日本国内では工業用塩の安定確保が喫緊の課題となり、昭和11(1936)年には工業用塩の主要な供給源に対する方針が、それまでの「遠主近従」(近海塩の不足を遠海塩で補充する)から「近主遠従」(遠海塩の不足を近海塩で補充する)へと大転換されました。そして、各地域別の目標が定められ新規塩田の開発、塩業会社の設立などが一斉に実施されました。
国家的使命が一段と高まった同社は、関東州の普蘭店、貔子窩、双島湾などでさらなる塩田拡張を強力に推進した結果、昭和14(1939)年末には塩田と未完成塩田を合わせた総面積で1万町歩に手が届くところまで開発が進みました。さらに、同社は台湾、朝鮮でも塩田の新設を開始しました。
冒頭の写真は、関東州・五島塩田の結晶池と塩円推場です。
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