神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第10回「台湾の製糖業に進出」をご紹介します。
2016.7.25.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ(10)台湾の製糖業に進出 砂糖 拡大路線の旗印」が、7月24日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は前回に引続き、本年5月下旬、当記念館と神戸新聞社が実施しました台湾の取材他に基づいて同紙が執筆されたものです。取材陣は5月24日(火)~25日(水)に台湾の中西部(台中・雲林)、南部(高雄)を訪れました。
記事では、鈴木商店が台湾において初めて設立した製糖会社、北港製糖の月眉工場跡地(現・台糖月眉観光糖廠)の様子、台湾における製糖設備の機械化に道筋をつけた台湾砂糖之父・新渡戸稲造の働き、鈴木商店が台湾において製糖業をはじめ様々な産業部門へ進出し確固たる地位を確立した立役者といえる平高寅太郎の活躍、鈴木商店が製糖用機械を国産化すべく、台湾鉄工所を設立した経緯などが描かれています。
■北港製糖月眉工場跡地(現・台糖月眉観光糖廠)・同北港工場跡地
鈴木商店が明治36(1903)年、福岡県企救郡柳ヶ浦村(後・大里町)に設立した大里製糖所に次いで、台湾で興した最初の製糖会社が明治43(1910)年に嘉義庁北港街(現在の雲林県北港鎮華南路)に設立した北港製糖です。経営陣は、鈴木商店と密接な関係にあった小松楠彌が社長に、常務に宮尾麟(元・台湾総督府技師)、日向利兵衛(実業家)、取締役に辻湊(技師長兼務)、後藤鉄二郎(後藤回漕店)他が就任しました。なお、製糖機械の発注、二工場の建設には神戸製鋼所の技師長から転じた辻湊が当りました。
北港製糖は、嘉義庁下の北港と月眉(現在の台中市后里區甲后路)に工場を設けましたが、その理由は、台南や高雄など南部の肥沃な製糖区域はすでに台湾製糖、塩水港製糖、大日本製糖、明治製糖といった先発の製糖会社に押さえられていたからです。
このような状況下で鈴木商店が次にとった手段は買収・合併策で、製糖区域が近い内地資本による東洋製糖、内地島内合同資本による斗六製糖を買収し、大正4(1915)年には、南靖、烏樹林、北港、斗六、烏日、月眉の6工場を擁する新生・東洋製糖が誕生します。東洋製糖はその後も合併を繰り返し、台湾、明治、大日本、塩水港とならんで台湾5大製糖と称せられる大製糖会社にまで成長。さらに、塩水港製糖の大株主になるなど、鈴木商店の製糖事業は台湾中部を拠点として新竹、桃園、宜蘭へと北進していきました。
鈴木商店破たん後の昭和5(1930)年、東洋製糖は大日本製糖に吸収され、戦後、月眉工場と北港工場は国民政府に接収され、台湾糖業公司・月眉糖廠、北港糖廠として稼働しましたが、現在はいずれも操業を停止し、月眉糖廠は観光施設「台糖月眉観光糖廠」として一般公開されています。
冒頭の写真は、かつての北港製糖・月眉工場(後に台湾糖業公司・月眉糖廠、現・台糖月眉観光糖廠)です。上の写真は、かつての北港製糖・北港工場(後に台湾糖業公司・北港糖廠)跡地で、現在は完全に閉鎖されているため、敷地外からの撮影となりました。
■台湾糖業博物館(旧台湾製糖・橋頭糖廠)
次に、取材陣は「台湾糖業博物館」(旧台湾製糖・橋頭糖廠)(高雄市橋頭區橋南里糖廠路)を訪れました。同博物館は平成13(2001)年にオープンし、台湾の製糖文化と生活、台湾製糖の発展の歴史などが展示されています。
橋頭糖廠は明治33(1900)年に三井財閥を中心に設立された台湾製糖の主力工場で、当時台湾最初の最新機械による製糖工場でした。製糖のプロ・藤木三郎を社長に据え、台湾総督府民政長官・後藤新平により招聘され台湾総督府殖産局長心得に就任した新渡戸稲造の支援を得て、台湾最大の製糖工場として発展しました。
上の写真は「台湾糖業博物館」(旧台湾製糖公司・橋頭糖廠)。右は博物館内に展示されている新渡戸稲造の胸像で、解説文には"台湾砂糖之父"と記されています。
■台湾鉄工所跡地
5月25日(水)、取材陣はかつて鈴木商店と神戸製鋼所が中心となって上記台湾製糖公司・橋頭糖廠の隣接地に設立した、台湾鉄工所(製糖機械製造会社)の跡地を訪れました。
台湾鉄工所・東工場跡地には当時の古い建物がいくつか残っていましたが、機械類はすべて撤去され倉庫や作業場になっており、同西工場跡地は空き地と駐車場になっていました。いずれも、残念ながら往時を思い起こさせるものは残されていませんでした。
明治43(1910)年に北港製糖を設立した鈴木商店は、北港(台南)・月眉(台中)両工場向け製糖機械をイギリス、ドイツから輸入するに際し、製糖用機械を国産化すべく神戸製鋼所による事業化を計画。大正8(1919)年、台湾鉄工所を設立し、製糖用機械の製造・修理を開始しました。
台湾鉄工所は、当初神戸製鋼所の分工場とすべく計画されましたが、神戸製鋼所の台湾市場への進出に脅威を覚えた製糖機械メーカーの田中機械製作所の強い要請により、同製作所の出資を受け入れ、同時にユーザーである製糖各社の出資を得てスタートしました。(資本金200万円、鈴木商店・神戸製鋼所25%、田中機械製作所12.5%、製糖各社62.5%)
その後、 台湾における製糖業の発展により業容を拡大した台湾鉄工所は、高雄市前金区に移転。戦後、同鉄工所は東南水泥股份有限公司(セメント製造会社)の所有となりました。同社セメント工場のうち、台湾鉄工所時代の建屋は倉庫として使用されてきましたが、高雄市臨海地区整備事業のため本年6月での取り壊しが決定。これにより台湾鉄工所の遺跡は消滅することとなり、取材陣の訪問は、まさに取り壊し直前のぎりぎりのタイミングでした。
上の写真は、取り壊し直前の台湾鉄工所・東工場跡地の倉庫(右)と同西工場跡地です。
当日は、兵庫県立芦屋高等学校教諭・齋藤尚文氏(博士・学術)が以前から調査の協力をいただいている陳政宏副教授(成功大学、船舶機電工程学)には説明のために台南からお越しいただき、趙忠傑氏(東南水泥股份有限公司)とともに工場跡地を案内していただきました。
■台湾国際造船股份有限公司
次に、取材陣は台湾鉄工所をルーツの一つとする台湾国際造船股份有限公司(高雄市小港區中鋼路)を訪問しました。
上の写真は、台湾国際造船股份有限公司を訪れたときの様子です。同社は台湾最大の造船会社(コンテナ船の建造が主力)であり、船舶生産ではアジア11位。双日グループでは、双日マリンアンドエンジニアリングの船舶部門が1990年代に日本郵船向け新造船を発注した実績があり、機械部門では神戸製鋼所製の中間軸・推進軸、イーグル工業製の船尾管シール、長崎船舶装備製の居住区資材、帝国機械製作所製の舶用各種ポンプ等で継続的に取引を頂いている顧客でもあります。
まずは、陳豊霖社長への表敬訪問となりました。陳社長は「造船には専門技術が必要であり、その基礎を日本が作ってくれたこと、当時の鈴木商店が投資者として台湾の重工業へ移行する機会を作ってくれたこと、また自社の歴史保存のために歴史館を建造する予定であり、今後さらなる資料提供も可能となること」など謝意を示されるとともに、ご自身の造船史認識、今後の方針等について丁寧にご説明をいただきました。表敬訪問後は同社広報部の案内にて工場施設を見学することができました。
■大日本塩業倉庫跡(現・安平樹屋)
続いて、取材陣は大日本塩業倉庫跡(台南市安平區古堡街)を訪れました。
上の写真は、ガジュマルに覆われた大日本塩業倉庫跡です。明治32(1899)年4月、台湾総督府民政長官・後藤新平は一旦自由化していた塩の販売について阿片、樟脳に継ぐ3つ目の専売制度として復活させます。
鈴木商店が台湾塩専売制度に食い込んだのは、内地移出販売を一手に引き受けていた愛知県知多郡半田町(現・半田市)の豪商・(二代目)小栗富治郎が経営する小栗銀行の破綻がきっかけです。金子直吉は小栗銀行の整理を依頼してきた桂太郎(当時、第一次桂内閣首相)に対し、台湾塩の内地移出販売権を要求。鈴木商店は明治42(1909)年、小栗銀行の整理に着手するとともに台湾塩の内地への移出業を担うこととなり、その受け皿として東洋塩業を設立しました。
「塩を制する者は化学工業を制する」という強い信念をもっていた金子は、東洋塩業に藤田謙一(後に東京毛織専務、帝国火災保険社長、日本活動写真社長、箱根土地社長、第三代東京商業会議所会頭、初代日本商工会議所会頭)を取締役に迎えると、明治43(1910)年に社名を台湾塩業に変更するとともに、関東州(中国・遼東半島の租借地)に大規模な塩田開設権を獲得して、すでに関東州塩を販売していたライバル企業、大日本塩業を牽制します。
大正3(1914)年、大日本塩業はに鈴木商店の傘下に組み入れられました。大正6(1917)年、鈴木商店は関東州の塩田開設権を継承した東亜塩業(大正4年設立)とともに3社を糾合して大日本塩業に一本化しました。
大日本塩業は、当時慶応3年(1867)年に徳記洋行(イギリス人による貿易商社)が建てた倉庫を安平出張所倉庫として使用していました。戦後は台湾製塩総廠の所有となりましたが長期にわたり放置されていた為、周囲にガジュマルが生い茂り奇観を呈する建物となっています。現在は「安平樹屋」として、隣接する徳記洋行(建物内部は歴史博物館になっています)とともに観光名所となっています。
■トピック
かつての 鈴木商店台北支店の所在地を、特定することができました。
この度の取材で、鈴木商店台北支店の所在地が特定できたことは極めて大きな収穫でした。これまで、大正2(1913)年に開設された台北支店の所在地については未調査でしたが、取材に同行いただきました齋藤尚文氏(博士・学術)が5月23日(月)に実施された調査(*)により、現在の台北駅南側の交通八号広場が台北支店の跡地であることが判明したものです。
(*)臺灣日日新報(大正6年9月11日付)の記事、橋本白水著「島の都」(南国出版協会 1926)中の記述と昭和3(1928)年当時の現地の古地図を照合。
念のため、古地図を持参して隣接する会社事務所の年配の方に確認したところ、北門および当時の郵便局、幹線道路の位置から見ても、古地図上の鈴木商店台北支店の場所は交通八号広場に間違いないとの証言を得ることができました。上の写真は、かつて鈴木商店台北支店が存在していた交通八号広場です。
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