神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第12回「セルロイド製造挑戦」をご紹介します。
2016.8.8.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ(12)セルロイド製造挑戦 日本の化学工業ひらく」が、8月7日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事では、日本セルロイド人造絹糸設立から100年を記念して平成20(2008)年10月、網干工場内に建てられたセルロイド圧搾用試験機のモニュメントに掲載されている魂のこもった一文のことからはじまり、ダイセルの前身が鈴木商店が出資して設立された日本セルロイド人造絹糸であり、網干工場が化学工業のさきがけ・日本のものづくりの原点ともいえる場所であること、創業時から幾多の苦難を乗り越え、現在は幅広い分野で活躍する企業となっていること、現在も様々な業界から注目を集め導入されている「ダイセル方式」がここ網干工場から生み出されたこと、などが描かれています。
セルロイド、それは世界最初の人工プラスチック(合成樹脂)です。1865年にイギリス人のA・パークスが硝酸セルロースと樟脳の固溶体について特許を取得。その後1868年にアメリカ人のJ・W・ハイヤットがセルロイドを発明し、自らのセルロイド製造会社において企業化しました。当時欧米で大流行していたビリヤードの象牙球が高価だったため、あるビリヤードボール製造業者が安価な代替品の開発を懸賞金付きで募集し、これに応募したことがきっかけでした。
日本においては、明治10(1877)年にドイツから神戸の外国人居留地22番のフランス商館に赤色板状の一片のセルロイド生地見本が初めて輸入され、大阪の西川伊兵衛が買い取りました。これが、わが国におけるセルロイド史の第1ページとなりました。明治18(1885)年には、横浜ドイツ商館にドイツ製セルロイド「擬珊瑚珠」が着荷し、この擬珊瑚珠は「ゴム球」または「あずま球」と称され、櫛、簪、根掛などとしての需要を喚起しました。
明治28(1895)に日清戦争が終結し、下関条約が締結され台湾が日本の領土になると、明治36(1903)年頃にはセルロイドの原料である樟脳(クスノキから抽出する)の世界の需要の90%を台湾が供給するようになりました。一方、これに相応ずるかのように日本のセルロイドの輸入もまた増加傾向であったことから、セルロイド製造の国産化は自然の流れでした。
明治41(1908)年、三菱・鈴木商店・岩井商店の出資により兵庫県揖保郡網干町(現・姫路市網干区新在家)に日本セルロイド人造絹糸が設立されました。セルロイドの原料である原紙の製造および硝化綿の洗滌には多量かつ化学的純度の高い水が必要とされることから輸送の利便性も考慮した結果、揖保川河口の網干町に工場の建設を決定したものです。
社長には三菱を代表する近藤廉平が、専務には近藤の補佐役たる田中常徳と鈴木商店出身の松田茂太郎が、取締役には三菱から岩崎豊彌が、岩井商店から岩井勝次郎が就任しました。なお、時をほぼ同じくして同年、三井により堺セルロイドが設立されました
冒頭の写真は、日本セルロイド人造絹糸創業当時の網干工場の1号ボイラー(左)と、現在も特高受電施設として使用されている同ボイラーの姿(右)です。
日本セルロイド人造絹糸は設立当初は、その社名の通りセルロイドとともに人造絹糸(人絹)の製造を目的とし、鈴木商店の金子直吉の強い希望により定款にもその旨が書き込まれましたが、当時硝化綿による人絹製造を実現するためにはなお相当の研究を重ねる必要があり、人絹にまで手を付けることには相当に無理がありました。その後大正4(1915)年に、鈴木商店傘下の東レザーがヴィスコース法による人絹製造の事業化に踏み切ることとなり、これが後に帝国人造絹糸(現・帝人)の設立(大正7年6月)につながっていきます。こうなれば、会社としては人絹の製造にまで手を伸ばす必要はなくなり、その方面への触手はいつとはなく立消えの形となりました。
工場の技術的指導に関してはイギリス人・クリーンを技師長とし、ドイツ、イギリス、スイスから計6名を招へいし、これに西田傳太郎、武藤邦矛ら邦人の技師を交えました。これら外国人技師の宿舎として建設された建物が、現在資料館として一般公開されている「ダイセル異人館」(上の写真左)とダイセルの迎賓館となっている「衣掛クラブ別館」(上の写真右)です。いずれの建物も昭和62(1987)年10月、兵庫県により「ひょうご住宅百選」に、平成元(1989)年7月、姫路市により「都市景観重要建築物等」に、平成21(2009)年2月、経済産業省により「地域活性化に役立つ近代化産業遺産」にそれぞれ指定・認定されています。
資金繰りが厳しい中、工場の操業はようやく緒についたものの、その技術たるや未熟で不良品山のごとしという状況で、じりじりと会社の経営を困難に陥れていきました。結局、クリーン以下の外人技師は相当の謝礼を支払って解任し、西田以下の邦人技師は苦心を重ねて自力で技術的な問題を解決していきました。
創立以後、経営難に陥り苦闘を続けていた日本セルロイド人造絹糸でしたが、大正3(1914)年7月に第一次世界大戦が勃発したことにより同社にも一大転機が到来します。同社網干工場にはロシアおよびルーマニアから大量の火薬製造が発注され、時局の要請と経営難という窮状打開のため、大正4(1915)年3月に火薬製造を開始します。結局、特需とも言うべき火薬製造の注文により同社は相当の利益を上げることができ、経営はようやく安定に向かいました。
一方、世界のセルロイド業界はヨーロッパでは各国がみな軍需品の製造に集中したことにより、セルロイドの製造には全く余力がありませんでした。このため、わが国にセルロイド生地および加工品の注文が殺到し、活況を呈し始めていたことから大正6(1917)年7月、日本セルロイド人造絹糸はセルロイド製造に立ち戻ります。このころ、同社では独自にセルロイド事業を企図していた岩井勝次郎と西宗茂二がそれぞれ取締役、支配人を辞任し、専務に島村足穂、支配人に下村尚美が就任し、経営主体は鈴木商店系に移行しています。下の写真は大正時代の網干工場の様子です。
大正7(1918)年11月に第一次世界大戦が終結すると、反動不況により一転してセルロイドは大幅な供給過剰となりました。また工場の乱立により、樟脳の原料であるクスノキの乱伐も危惧される状況にありました。結局、専売局の斡旋を受けて紆余曲折を経ながらも大正8(1919)年9月8日、日本セルロイド人造絹糸(合同比率21%)、堺セルロイド(同48%)、大阪繊維工業(同16%)ほか合計8社が合併し、大日本セルロイドが誕生します。この大日本セルロイドの大株主は、三井、鈴木商店、岩井商店が占めていました。
大戦終結の反動不況、昭和2(1927)年に発生した金融恐慌、昭和4(1929)年10月に始まった世界恐慌を乗り越えた新会社は、それまで地道に継続してきたセルロイドの品質向上の研究が大きく開花し、また長年にわたって海外市場の開拓につとめてきた努力が実を結び、輸出も飛躍的に伸長。昭和9(1934)年には網干に優良製品工場を建設することが決議され、当時の技術水準としては世界的に第一級と評される最新鋭工場が完成します。
ここにおいて、同社は品質面、生産量のいずれにおいてもまさに世界一となり、その製品は世界40数カ国に輸出されるまでに発展。昭和11(1936)年には全世界のセルロイド生産の40%を同社が占め、輸出の7割は網干工場から出荷されました。
この間、鈴木商店は昭和2(1927)年に破綻を余儀なくされ、同社は三井家を中心とした企業となります。鈴木商店のセルロイド事業への関与はここに終りを告げたのです。
大正中期、わが国は写真材料の大部分を輸入に頼っていたことから、大日本セルロイドはセルロイド事業に続く新規事業として、写真フィルム事業への進出を決意し昭和9(1934)年9月、写真フィルム事業を分離して富士写真フィルム(現・富士フィルム)が誕生し、現在に至っています。
昭和20年代後半から日本経済は高度成長期に入り、合成高分子プラスチックの台頭により、セルロイドの需要は低下していきました。昭和49(1974)年には国内のセルロイドの生産がダイセル1社に集約されます。そして平成8(1996)年には製造拠点を中国に移管し、ついに国内におけるセルロイドの生産に終止符が打たれました。
同社は昭和41(1966)にダイセル(株)、昭和54(1979)年にダイセル化学工業(株)、平成23(2011)年に(株)ダイセルと商号を変更し、今日に至っています。
現在のダイセルは、酢酸セルロースを中心とする「セルロース事業」、酢酸とその誘導品やLED封止剤などの機能化学品を展開する「有機合成事業」、高機能エンジニアリングプラスチックなどの「合成樹脂事業」、自動車エアバッグ用ガス発生装置などの「火工品事業」、水処理から食品工場などの生活関連産業に至るまで幅広い分野におよぶ「メンブレン事業」などを主要な事業とし、スペシャリティ・ケミカルの分野で世界展開する企業となっています。
上の写真は、広大な敷地(約80万㎡)を有する現在の網干工場(左)と同工場内の総合研究所(右)です。工場内には、セルロイドの原料である樟脳を抽出するクスノキが多く植栽されています。
上の写真は、前出の「衣掛クラブ別館」に隣接する同本館に掲げられている初代社長・近藤廉平直筆の掛け軸「工化之妙無窮」 (左)と日本セルロイド人造絹糸設立から100年を記念して平成20(2008)年に建てられたセルロイド圧搾用試験機のモニュメント(右)です。
「工化之妙無窮」とは、「化学工業の不思議さ、素晴らしさは窮まりない(=極まりない)」という意味です。
セルロイド圧搾用試験機は、セルロイド独特の柄を創作するのに用いられたもので、左隣のパネルには次のように記されています。「創業の精神に誓う 明治41(1908)年、この網干の地に、三菱・岩井商店・鈴木商店の出資により、日本セルロイド人造絹糸株式会社が設立された。我が国セルロイド、ひいては化学工業の本格的工業化時代のさきがけをなすものであり、当地は、当社並びに日本のものづくりの原点ともいえる場所である。先輩諸氏から脈々と続く、ものづくりの系譜がここにある。(中略) 再度創業の精神に立ち返り、革新に挑戦し続けることを祈念し、ここに碑を建立するものである」
なお、素材産業版カイゼン活動として様々な業界から注目を集めている「ダイセル方式」は、同社が過去に蓄積した膨大なデータを基にして網干工場において形づくられた、「次世代型化学工場」をコンセプトとするプロセス型化学工場における革新的な生産方式です。
その大きな特徴は、ミエル(基盤整備:オペレーターの経験・暗黙知を見える化) ⇒ ヤメル(頭の中の標準化:科学的見地から意思決定プロセスを厳選) ⇒ カワル(カーナビ化:短期間で判断可能な「意思決定支援システム」を構築)の3段階の行程を順番に踏むことにあります。
同方式は、すでに日本を代表する大企業を始め数多くの企業に導入されており、今も多くの企業が網干工場の見学に訪れています。
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