神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第14回「神戸製鋼の『創業者』」をご紹介します。
2016.8.29.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ (14)神戸製鋼の「創業者」 商社の遺伝子 多角化展開」が、8月28日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、今年4月に神戸製鋼所本社で最高峰の社内賞「田宮賞」の授賞式があったくだりから始まります。鈴木商店が経営に行き詰まった小林製鋼所(後の神戸製鋼所)を買収し、金子直吉が立て直しのため田宮嘉右衛門を指名したこと、依岡省輔の活躍により呉海軍工廠から揚弾機の部品製造の受注を獲得したこと、大里製糖所の売却資金により設備を充実させたこと、これらによって経営が徐々に軌道に乗ったこと、田宮嘉右衛門の人柄・経営者としての資質、神戸製鋼所の事業が鉄鋼に止まらず多角化している根底には間違いなく商社の遺伝子・鈴木商店の影響があることなどが描かれています。
田宮嘉右衛門生は明治8(1875)年8月29日、愛媛県新居郡立川山村(現・新居浜市)に出生。田宮家は、代々近くの別子銅山に勤務し、田宮の父・治助も住友別子銅山に40年勤務しました。
小足谷尋常高等小学校高等科卒業後の明治25(1892)年、17歳の田宮は大阪に上り、大阪市北区役所庶務課に就職の第一歩を踏み出しました。その2年後、夜間商業に通って勉学に勤しみつつ自分の才能を生かせる仕事を求めて米穀取引所に転職します。
その後、田宮は明治33(1900)年、神戸市雲井通五丁目にあった住友樟脳製造所(後に鈴木商店直営の樟脳製造所となる)に入社し、会計係として勤務しました。
明治36(1903)年、鈴木商店が住友樟脳製造所を買収すると、田宮は金子直吉と運命的な出会いを果たします。田宮の誠実な人柄にほれ込んだ金子直吉は、引続き鈴木商店樟脳製造所で主任として働くことをすすめ、翌明治37(1904)年、29歳の田宮は鈴木商店に入社します。上の写真は、青年時代の田宮嘉右衛門です。
折しも鈴木商店は明治36(1903)年、北九州に大里製糖所を設立したところで、田宮は鈴木商店樟脳製造所に入社して4カ月目にして、突然金子から事務長格として大里製糖所への転勤を命じられます。
さらに、田宮が大里に赴任した翌明治38(1905)年3月、金子が突然大里製糖所の工場を訪ね、田宮にこう話します。「神戸の脇浜に小林製鋼所というのが建設中であるが、この方に店から四、五十万円融資している。この製鋼所では事業として相当に困難なものであるから、成功する公算は少ないとみなければならない。したがって融資した金も多分にこげつきになりそうな気がする。しかし製鋼業は国家的な事業でもあるし、むざむざつぶしたくない。そこでいずれ鈴木が背負うことになるかも知れないが、そのときは相当な覚悟をもって臨む人物が必要だ。これを君にやってもらいたいと思っている」
このとき、金子は操業間もなく行き詰まった小林製鋼所を買収、神戸製鋼所に改称し鈴木商店の直営工場とすることを決断したところだったのです。そして同年、金子から見込まれた田宮は、大里製糖所から呼び戻され、僅か30歳の若さで神戸製鋼所の支配人に任命されます。ここから、神戸製鋼所の歴史はスタートします。
上の写真は、JR神戸線の灘駅からおよそ500m西に位置する神鋼病院の入口に設置されている黒御影石の「神戸製鋼所発祥の地」の碑です。
神戸製鋼所は創業当初は主に船舶・車両などの鋳造部品の製造を手掛けていましたが、製綱技術は極めて未熟で満足な製品が出来ず、赤字続きで経営不振に陥り、金子と田宮は工場閉鎖について協議することも再三でした。しかし西洋諸国でも当初は困難があっても最後には成功している例が多いのでこの事業はそれほど悲観するには当たらない、覚悟次第で道は開ける、と二人は度胸を据えてかかることを心に誓いあったといいます。
田宮は、始業より30分早く出勤し、終業より30分遅くまで残るのが常で、朝事務を執る前にカーキー色の作業服に着替えて工場を巡って無駄があれば釘の1本、水道の一滴まで注意する一方、常に従業員の労をねぎらい、その健康状態に心を配ることを忘れませんでした。田宮の早朝の工場巡視は後々常務時代まで欠かすことなく続けられました。
神戸製鋼所が経営危機という苦境を回避できたのは、鈴木商店が250万円の資本を投じて設立した大里製糖所を明治40(1907)年に大日本製糖に650万円で売却して得た資金(売却益400万円)があったからでした。
田宮は早速設備の拡充をはかるべく、10㌧炉1基、15㌧クレーン1台の増設(費用はおよそ55万円と高額でした)を金子に要望したところ、金子は顔色一つ変えず即座に「よろしい」と答えたといいます。さらに金子の人脈と金子に抜擢された依岡省輔の外交手腕により、呉海軍工廠砲熕部の随意契約の受注に成功。その後も舞鶴、横須賀、佐世保の各海軍工廠からも受注を獲得し、これが神戸製鋼所の発展の原動力となりました。
これを機に希望の光が見えた明治44(1911)年6月、神戸製鋼所は鈴木商店から分離独立し、鈴木商店全額出資の株式会社神戸製鋼所が設立され、再スタートを切りました。海軍工廠との関係強化をはかるため、初代社長には元海軍造船少将・黒川勇熊少将を迎え、監査役には貴族院議員となっていた元海軍少佐・吉井幸蔵を迎えました。そして、専務取締役には依岡省輔、常務取締役には田宮嘉右衛門、もう一人の監査役には鈴木岩治郎が就任しましたが、実質的には田宮・依岡コンビによる経営体制でした。上の写真は、依岡省輔(左)と田宮嘉右衛門です。
このような最中の明治45(1912)年、田宮は妻・かねのすすめにより、かねとともに神戸教会にて洗礼を受け、キリスト教の信仰に入ります。入信により心の苦悩が和らいだ田宮は、短気なところがなくなり、全く穏やかな人物に変身。以後、田宮は亡くなるまでのおよそ50年間その信仰をかたく守り続けました。
その後、田宮と依岡のコンビにより経営基盤を固めた神戸製鋼所に転機が訪れます。それは、第一次世界大戦勃発に伴う世界的な需要増加でした。
田宮は大型鍛鋼品の大量需要を予測し、これに対応するため、神戸製鋼所の飛躍的発展を決定づけることになる1,200トンプレス(左の写真)という大型圧錬機の導入を強く金子に要請し、承認を得ます。
田宮は大正2(1913)年に海外の工場を視察するためイギリスを訪れ、いずれの工場でも鍛造設備が充実していることを確認しました。同年、1,200トンプレスを導入した神戸製鋼所は大戦による造船ブームを捉え、船舶のシャフト類、錨などさばききれないほどの注文が殺到し、同社は鋳鍛鋼メーカーとして確固たる地位を確立していきます。上の写真は大正2(1913)年、ロンドンの一行(前列右が田宮、後列左は高畑誠一)(左)とシェフィールドの工場を視察中の田宮です。
一方で、同社は機械メーカーとしての道も歩み始め、高度な技術を必要とする空気圧縮機、蒸気機関、製糖機械、冷凍機、セメント機械などの生産を開始。大正7(1918)年にはスイス・ズルツァー社からディーゼルエンジンの製造権を譲り受け、艦艇、船舶、機関車、自動車等わが国の運輸部門の高速度化にも貢献します。上の写真は、ディーゼルエンジン(左)と三千七百馬力舶用汽機です。
大正11(1922)年のワシントン軍縮会議により八八艦隊計画が中止となった結果、神戸製鋼所は深刻な打撃を受け、約400人を解雇する事態となります。その前年の大正10(1921)年、神戸製鋼所は鈴木商店全体の合理化策の一環として傘下の播磨造船所と鳥羽造船所を吸収しますが、その際にも両造船所の従業員のうち約2,000人を解雇せざるを得ませんでした。
その後、神戸製鋼所に残された鳥羽電機製作所(鳥羽造船工場の電機部門)からは神鋼電機(現・シンフォニア・テクノロジー)が誕生します。さらに、同社は鉄道用のエヤーブレーキの製造分野にも進出し大正14(1925)年、日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)が設立されました。
神戸製鋼所は第一次世界大戦の終結(大正7年)に伴う深刻な戦後不況を克服するため、大正13(1924)年に鉄鋼圧延事業に進出し、さらに大正15(1926)年には後に「線材の神鋼」との高い評価を得ることになる線材事業に着手します。この2つの事業は、後に同社の屋台骨を支える事業に成長します。
昭和2(1927)年に鈴木商店破綻した後、神戸製鋼所は台湾銀行の管理化に置かれ、鈴木商店出身の経営陣は退陣。田宮も辞意を決意していましたが、大蔵大臣・三土忠造が田宮の留任を台湾銀行頭取・島田茂に命じ、最後は金子から同社に残るべく諭された結果、田宮は専務取締役に就任する道を選びます。
その後自主経営が実現すると昭和9(1934)年8月、創業以来の最大の功労者ともいうべき田宮が第五代社長に就任します。このとき、神戸製鋼所十五年会(勤続15年以上の従業員によって組織されました)が中心となって田宮社長擁立運動が起こり、この運動は従業員から世論となって広がっていきました。田宮嘉右衛門、58歳の時でした。
田宮は社長就任にあたり、次のような声明を出しています。
1.これからは学閥、経歴を問わず、有能の士は抜擢すること。
2.今までの重役は軍、官庁などからの天下りであったが、社員からでも重役を出すこと。
神戸製鋼所は台湾銀行管理下時代、合理化を図るため昭和4(1929)年に造船部門を切り離し、播磨造船所を独立させます。その一方でわが国初の高速エンジン(無気噴油式機関)の開発を成功させるなど技術開発を進めました。
太平洋戦争中、同社は陸軍・海軍の軍管理工場に指定され、原材料欠乏の中各種軍需製品の生産に従事し、軍の設備拡張要請にも応えるべく工場増設を強力に進め、国策遂行にひたすら傾注します。この結果、同社の工場の数は22にもおよび、従業員数は7万2千人という大世帯となりました。上の写真は、昭和10年頃の本社工場です。
終戦後、田宮は業界に先立って空襲により大打撃を受けた各工場の再建に着手します。人員整理など着実に再建への足がかりを作っていきましたが、多数の社員を解雇するにあたっては、まず自ら率先垂範する必要があるとして、昭和29(1954)年に社長辞任を明言し、新社長に浅田長平を指名します。
結局、田宮は13年にわたり社長を務め、依岡省輔とともに神鋼中興の祖として讃えられました。田宮は、その後も神戸製鋼所、播磨造船所、神鋼金属工業、神鋼電機、太平洋商事、呉造船所などの相談役に迎えられ、大所高所から各企業に的確な助言を行ないましたが、昭和34(1959)年4月13日、親族、神戸製鋼所の幹部に見守られながら83年の生涯を閉じました。
その後、神戸製鋼所は長きにわたり田宮を支え続け苦労を分け合ってきた後継社長・浅田長平が田宮の遺志を引き継ぎ、海外の先進的な技術を積極的に導入しつつも独自の技術開発に力を注ぎ、後に神戸製鋼所の主力事業に成長する線材事業の拡大も推進しました。
現在の神戸製鋼所は、鉄鋼事業に止まらず溶接材料・非鉄金属・機械・エンジニアリング事業等を幅広く手がける複合企業体としての特徴を遺憾なく発揮し、グローバルに展開する企業として成長を続けています。
左の写真は、田宮の後継社長・浅田長平です。
浅田長平については下記をご覧ください。
人物特集>浅田長平
最後に、田宮嘉右衛門伝(昭和37年4月13日 田宮記念事業会編集)に描かれている、田宮嘉右衛門の人となりをご紹介しましょう。
〇信義に熱い正直な人柄。
〇至誠一貫を説き、和衷協同を唱え、これを自ら実践。
〇田宮の誠心誠意をもってする対応は、信頼を深めるのに十分。
〇温厚な性格であったが、仕事のことになると厳格そのもの。
〇ひたむきな仕事への情熱。
〇家庭内にあっても、国策に反するものはそれがささいなことであっても一切許さず。
〇たくまない話術と、人をやわらかく包むという自然に備わった徳。
〇田宮自身、外部から信頼されるとともに、自分の部下を一層信頼。
〇相手が誰であろうと、地位、年齢などにかかわらず、同じようにその人格を認めて対応する謙虚な態度。
〇阿諛迎合、面従腹背、責任回避、言い訳、泣き言などといった気配なし。
〇自らも切手一枚でも公私混同を許さず。
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