神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第16回「貿易支える人材育成」をご紹介します。
2016.9.12.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ (16)貿易支える人材育成 神戸高商 実業界に逸材」が、9月11日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、神戸大学六甲台第1キャンパスにある神戸高等商業学校(神戸高商)の初代学長・水島銕也の銅像に関する記述から始まります。同校の設立経緯、水島の経歴・教育方針・国際貿易に通じる人材をそだてるため特に語学教育に力を入れたこと・学生一人一人に寄り添う人となり、高畑誠一が水島の推薦により鈴木商店に入ったこと、同期(第3期生)の高畑、永井幸太郎、出光佐三にまつわるエピソード、鈴木商店が同校に多額に寄付をして同校の卒業生が数多く(約120名)入社し社内で「高商派」が形成されていったこと、高畑の生い立ちとその後の活躍などが描かれています。
冒頭の写真は、創立当時の神戸高商です。
神戸大学の前身、神戸高等商業学校(神戸高商)は明治35(1902)年、東京高等商業学校(現・一橋大学)に次ぐ官立第二の高等商業学校として神戸市葺合町筒井村(現・神戸市中央区野崎通)に設立され、「学理と実務の両立」という教育理念を掲げ創立準備から携わり、20数年間初代校長を務めた水島銕也(左の写真)の下からは、高畑誠一(日商・会長、日本火災海上保険社長)、永井幸太郎(日商・第二代社長、日本発条社長、商工省貿易庁長官)、出光佐三(出光興産・創業者)、和田恒輔(富士電機・中興の祖)など後に大正から昭和を代表する財界人が数多く巣立ちました。
出光佐三も鈴木商店の入社試験を受けましたが、内定通知が遅れたため鈴木商店には入社せず小説「海賊とよばれた男」(百田尚樹著)の道を歩んでいきました。同期の高畑、永井、出光は「一年間すき焼きを食べる会」を結成するなどユニークな学生時代を送っていたといいます。
水島銕也が金子直吉と昵懇の仲であったことから鈴木商店には優秀な卒業生が推薦され、明治40(1907)年卒業の第1期生、大久保弥十郎の入社から始まり、毎年数名の卒業生が鈴木商店に就職し、高畑誠一、永井幸太郎、西川政一(日商・第三代社長、日商岩井・初代社長)をはじめ多くの卒業生が鈴木商店を就職先に選びました。
高畑誠一、永井幸太郎、西川政一については下記をご覧下さい。
大正期には、神戸高商卒業生の就職先としては地元の鈴木商店か三井物産かと言われ、鈴木商店絶頂期の大正5(1916)年~8(1919)年の4年間には65名もの卒業生が採用されています。昭和2(1927)年の破綻までに鈴木商店に入社した神戸高商の卒業生は120名余を数えました。
彼らは「高商派」と呼ばれ、持ち前の実践力を発揮して「土佐派」と呼ばれた高知商業出身者を中心とする勢力と互いに競い合いながら強力に鈴木商店の近代化を推進していきましたが、一方で、大正中頃から両派の確執が強まりました。鈴木商店学卒第一号として入社し、金子直吉の信頼の厚い支配人・西川文蔵(西川政一の岳父)は高商派と土佐派の軋轢が生じるたびに、両者の間に入って融和に努めたといいます。
西川文蔵については下記をご覧下さい。
こうした背景から、鈴木商店は神戸高商に奨学金(鈴木よね名義、鈴木商店名義)、神戸高商創立時の神戸葺合校舎に建設された講堂建築費用(鈴木岩治郎名義)、書籍(高畑誠一名義、鈴木商店サンフランシスコ支店名義)など多額の寄付をしています。
葺合校舎講堂(左の写真)の建設資金は鈴木商店のほか、山下亀三郎(山下汽船・創業者)、勝田銀次郎(勝田汽船・創業者、後の神戸市長)からの寄付を得て建設され、大正8(1919)年に催された新講堂開堂式の後、文部大臣中橋徳五郎の巡視を得ています。
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