神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第17回「番外編 (17)台湾に名残色濃く」をご紹介します。
2016.9.19.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ 番外編 (17) 台湾に名残色濃く 遺構、人脈、企業 全土に」が、9月18日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、この度の取材にご同行いただいた兵庫県立芦屋高等学校教諭・齋藤尚文氏(博士・学術、当記念館の協力者)の執念とも言える調査により、鈴木商店台北支店の跡地を特定することができたことから始まります。(詳しくは後述の「かつての鈴木商店台北支店の跡地 [台北市]」をご覧下さい)さらに、鈴木商店の台湾事業のパートナーであった後藤回漕店の5代目・後藤勝三社長のいとこである台湾経済研究院顧問・辜晏宏氏による日本統治時代の農業の底上げ・工業の発展に関するお話、製造した塩を九州・大里の鈴木商店再生塩工場にも移出していた大日本塩業の安平出張所事務所兼倉庫(現・安平樹屋)について、台湾鉄工所をルーツの一つとする台湾国際造船股份有限公司などが描かれています。
当記念館は本年5月21日(土)~26日(木)の間、神戸新聞社とともに台湾北部・中西部・南部の鈴木商店ゆかりの各地を巡りました。今回の連載の台湾番外編の掲載を機に、改めてこの度の取材で訪れた鈴木商店ゆかりの各地について振り返ってみたいと思います。
■5月22日(日)
〇台北市
①国立台湾博物館(旧・台湾総督府博物館)
台湾最古の博物館で大正4(1915)年、第4代台湾総督・児玉源太郎と初代民政長官・後藤新平の功績を記念して「児玉総督後藤民政長官記念館」として建設されました。
取材陣の訪問時には、同博物館の3階に展示されていた児玉源太郎と後藤新平の銅像は同博物館の一部改修のため、保管・修復倉庫(「南門園区」内にある古遺修復所)に移されており、そこで対面することができました。
②南門園区(国立台湾博物館・分館)(旧・台湾総督府専売局・阿片樟脳工場)
台湾総督府専売局台北南門工場は明治32(1899)年に建設され、阿片と樟脳の加工製造工場として当時アジア一の規模を誇り、第二次世界大戦後も国民政府による樟脳の専売事業継続に伴い稼働してきましたが、昭和42(1967)年の樟脳事業民営化に伴い閉鎖され、平成25(2013)年に国立台湾博物館の「南門園区」(博物館の分館)として生まれ変わりました。
辰野金吾の設計による「紅楼」内には、当時の阿片製造の様子や樟脳の精製工程のパネル、製脳工具、工場レイアウトの模型、樟脳神社「久須乃木神社」の模型などと並んで、鈴木商店の紹介パネルが展示されています。
■5月23日(月)
〇北部(宜蘭)、台北市
①台湾電力公司・蘭陽発電廠
鈴木商店が設立した宜蘭電気を起源とする水力発電所です。明治42(1909)年、鈴木商店を中心に設立された宜蘭電気は、台南製糖、二結製糖所向け電力供給のため水力発電を計画し、大正2(1913)年に送電を開始。同時に近隣の村々に豊かな灌漑用水を供給しました。
資金難から大正10(1921)年、宜蘭電気のほか台南製糖、旧・台湾電力3社により台湾電気興業が設立され翌年、陽蘭発電所による送電を開始。鈴木商店破たん後、同発電所は台南製糖、台湾電力に引き継がれ、戦後は台湾電力公司の経営となり、今なお宜蘭の人々に電力を供給し、田畑を潤し続けています。
②宜蘭設治記念館
同記念館は、明治39(1906)年に宜蘭庁(後に宜蘭郡を経て宜蘭県)の歴代首長公邸として建設された木造建物を、資料館として一般公開したものです。
第6代宜蘭庁長・小松吉久は、明治42(1909)年から大正9(1920)年まで11年間にわたって首長を務めた後、鈴木商店系列の日本殖産取締役、台湾炭業社長、朝日製糖社長に就任しました。
③かつての鈴木商店台北支店の跡地 [台北市]
これまで、大正2(1913)年に開設された台北支店の跡地については未調査でしたが、取材に同行いただいた齋藤尚文氏(博士・学術)が実施された執念とも言える調査(*)により、旧事務所は現在の台北郵便局(旧・台北中央郵便局)の向かい辺り・交通八号広場(上の写真左)の一角に、さらに新事務所は鉄道ホテルの向い側に位置する場所(古地図の「大正生命」の位置)にあったことが判明しました。かつての鈴木商店台北支店の所在地を特定できたことは、当記念館にとって極めて大きな収穫でした。
(*)臺灣日日新報(大正6年9月11日付)の台湾市内探訪記事および橋本白水著「島の都」(南国出版協会 1926)の記述と昭和3(1928)年当時の現地の地図を照合。
※下記の関連資料より古地図の拡大版をご覧下さい。
鈴木商店台北支店については次の地域等集をご覧下さい。
台湾(台北市)>①鈴木商店台北支店
④台湾菸酒股份有限公司(旧・台湾総督府専売局、旧・公売局)[台北市]
明治34(1901)年、台湾総督府所属官署として台湾総督府専売局が設置され、阿片・食塩・樟脳・樟脳油・煙草・酒類などの専売事業が行われ、鈴木商店の初期の台湾事業の中核となった樟脳、塩の島内および内地事業の展開に大きく関わりを持ちました。
専売局庁舎は大正11(1922)年に完成。戦後、専売局は、国民政府により接収された後も公売局として阿片以外の専売事業を継承していましたが平成14(2002)年、台湾菸酒股份有限公司として民営化され、現在公売局の建物は台湾菸酒股份有限公司の本社として利用されています。今回の訪問では外部からの撮影のみとなりました。
■5月24日(火)
〇中西部(台中・雲林)、南部(高雄)
①北港製糖月眉工場跡地(現・台糖月眉観光糖廠) [台中市]
②北港製糖北港工場跡地[雲林県]
鈴木商店が明治36(1903)年、福岡県企救郡に設立した大里製糖所に次いで、台湾設立した最初の製糖会社が明治43(1910)年に嘉義庁北港街(現在の雲林県)に設立した北港製糖です。
その後、鈴木商店は製糖区域が近い内地資本による東洋製糖、内地島内合同資本による斗六製糖を買収。大正4(1915)年には、南靖、烏樹林、北港、斗六、烏日、月眉の6工場を擁する新生・東洋製糖(後に台湾5大製糖と称せられる)が誕生します。
鈴木商店破たん後の昭和5(1930)年、東洋製糖は大日本製糖に吸収されます。戦後、月眉工場と北港工場は国民政府に接収され、台湾糖業公司・月眉糖廠、北港糖廠として稼働しましたが、現在はいずれも操業を停止し、月眉糖廠は観光施設「台糖月眉観光糖廠」として一般公開されています。上の写真は、北港製糖・北港工場の跡地(左)と北港製糖・月眉工場の跡地(現・台糖月眉観光糖廠)です。
③台湾糖業博物館(旧台湾製糖公司・橋頭糖廠) [高雄市]
橋頭糖廠は明治33(1900)年に三井財閥を中心に設立された台湾製糖公司の主力工場で、当時台湾最初の最新機械による製糖工場でした。
製糖のプロ・藤木三郎を社長に据え、民政長官・後藤新平により招聘され台湾総督府殖産局長心得に就任した新渡戸稲造の支援を得て、台湾最大の製糖工場として発展しました。
橋頭糖廠は平成13(2001)年に博物館としてオープンし、台湾の製糖文化と生活、台湾製糖公司の発展の歴史などが展示されています。
新渡戸稲造の胸像も展示されており、解説文には"台湾砂糖之父"と記されています。
■5月25日(水)
〇南部(高雄、台南)
①台湾鉄工所(現・東南水泥(セメント)股份有限公司)跡地[高雄市]
明治43(1910)年に北港製糖を設立した鈴木商店は、北港(雲林)・月眉(台中)両工場向け製糖機械をイギリス、ドイツから輸入するに際し、製糖用機械を国産化すべく神戸製鋼所による事業化を計画。大正8(1919)年、台湾鉄工所が設立され、製糖用機械の製造・修理を開始しました。
台湾鉄工所は、当初神戸製鋼所の分工場とすべく計画されましたが、神戸製鋼所の台湾市場への進出に脅威を覚えた製糖機械メーカーの田中機械製作所の強い要請により、同製作所の出資を受け入れ、同時にユーザーである製糖各社の出資を得てスタートしました。
戦後、台湾鉄工所時代の建屋は東南水泥股份有限公司(セメント製造会社)の倉庫として使用されてきましたが、高雄市臨海地区整備事業のため本年6月での取り壊しが決定。これにより台湾鉄工所の遺跡は消滅することとなり、取材陣の訪問は、まさに取り壊し直前のぎりぎりのタイミングでした。
②台湾国際造船股份有限公司[高雄市]
既述の台湾鉄工所をルーツの一つとする同社は台湾最大の造船会社(コンテナ船の建造が主力)であり、船舶生産ではアジア11位。
双日グループとしては、双日マリンアンドエンジニアリングの船舶部門が1990年代に日本郵船向け新造船を発注した実績があり、機械部門では神戸製鋼製の中間軸・推進軸、イーグル工業製の船尾管シール、長崎船舶装備製の居住区資材、帝国機械製作所製の舶用各種ポンプ等で継続的に取引を頂いている顧客でもあります。
③台南駅・台南鉄道ホテル[台南市]
台南駅(通称「台鉄台南站」)は日本領有時代の明治33(1900)年に開業し、当時の台湾の経済の中心地であった台南の玄関口として栄えました。
駅舎2階部分には、台南鉄道ホテルとレストランが営業。台南鉄道ホテルは昭和9(1934)年の開業で、後藤回漕店が経営する「みかどホテル」に営業が委託されました。
ホテルは、昭和40(1965)年まで、レストランは昭和60(1985)年まで営業を続けていましたが、現在はいずれも閉鎖されています。
④大日本塩業倉庫跡(現・安平樹屋) [高雄市]
明治32(1899)年4月、民政長官・後藤新平は一旦自由化していた塩の販売について阿片、樟脳に継ぐ3つ目の専売制度として復活させます。鈴木商店が台湾塩専売制度に食い込んだのは、内地移出販売を一手に引き受けていた愛知県知多郡半田町(現・半田市)の豪商・(二代目)小栗富治郎が経営する小栗銀行の破綻がきっかけです。
明治42(1909)年、鈴木商店は小栗銀行の整理に着手するとともに、台湾塩の内地への移出業務を担うこととなり、その受け皿として東洋塩業を設立しました。
「塩を制する者は化学工業を制する」という信念をもっていた金子直吉は、東洋塩業に藤田謙一を取締役として迎えると明治43(1910)年、台湾塩業に改称するとともに大正3(1914)年、ライバル企業、大日本塩業を鈴木商店の傘下に組み入れ、さらに大正6(1917)年、関東州の塩田開設権を継承した東亜塩業とともに3社を糾合して大日本塩業に一本化します。
大日本塩業は、当時慶応3年(1867)年に徳記洋行(イギリス人による貿易商社)が建てた倉庫を安平出張所事務所兼倉庫として塩田の開発、集荷の拠点として使用し、製造した塩を九州・大里の鈴木商店再製塩工場にも移出しました。現在は観光名所「安平樹屋」として人気を集めています。
■5月26日(木)
〇台北市
①台湾銀行文物館
台湾銀行は、日本による統治が本格的に始まる明治32(1899)年6月、台湾銀行法に基づき設置された台湾の中央銀行(株式会社)で、紙幣発行権を持つ特殊銀行でありながら、商業銀行のほか貿易銀行としての性格を有していました。
台湾銀行は昭和2(1927)年3月28日、当時の総貸出額7憶円余りのうち貸出額が3億5,000万円に達していた鈴木商店に対する融資打ち切りを決定し、鈴木商店は同年4月2日に経営破たん。昭和の金融恐慌から休業に追い込まれた台湾銀行は、政府の支援措置により再建するも第二次世界大戦の敗戦により昭和20(1945)年、清算され解散します。昭和21(1946)年、新生・台湾銀行が設立され、現在は国営による台湾最大の商業銀行となっています。
現在、台湾銀行本店建物に隣接する旧帝国生命・台北支店ビルに「台湾銀行文物館」が設けられ、旧台湾銀行時代から今日に至るまでの文献、紙幣・貨幣・印刷機等が展示されています。同文物館では昭和21(1946)年から所蔵資料の中国語訳が進められ、一部が閲覧可能となっています。
◆当記念館ではこの度の取材の結果を受け、地域特集「台湾」のページリをニューアルするとともに内容の一層の充実をはかりましたので下記関連リンクよりご覧下さい。
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