神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第18回「大戦景気に沸く神戸」をご紹介します。
2016.10.3.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ (18)大戦景気に沸く神戸 売り上げ 商社日本一に」が、10月2日(日)の神戸新聞に掲載されました。
連載企画の第3部「頂点に立つ」が始まりました。初回の記事は、第一次世界大戦により空前の好景気に沸く神戸、「船成金三羽がらす」の一人と称された勝田銀次郎の邸宅の現在の様子から始まります。続いて、松方幸次郎率いる川崎造船所の「ストックボート方式」による大躍進、勝田銀次郎、内田信也、山下亀三郎ら「船成金」の当時の様子、大戦景気が神戸の幅広い産業に波及したこと、この時期に最も華々しい業績をあげた鈴木商店の大躍進、とりわけ金子直吉の「一斉買い出動」の大号令の結果、莫大な利益を得て鈴木商店が売上高で三井物産を抜いて日本一の商社になったことなどが描かれています。
大正3(1914)年7月に第一次世界大戦が勃発すると、未曾有の大戦景気により大正7(1918)年ごろまで日本の産業は大躍進を遂げます。それまで世界の工場として世界中の物資を供給していた欧州が戦場となり、産業革命真っ只中の日本には大量の注文が舞い込みました。
価格高騰により、数々の研究開発途上の商品も世に送り出されるきっかけとなり、日本の産業の裾野も広がりました。大戦中の日本企業の設備投資は10倍にも膨れ上がったといいます。国際収支上も大正4(1915)年には貿易収支が黒字化。同時に経常収支も大幅に黒字化し、大正7(1918)年には債務国から債権国に転じました。
すなわち、日本は経済的にも一流国の仲間入りをし、現在に続く貿易立国のスタートラインといえる時期でもありました。そしてこの時期鈴木商店は大躍進し、日本産業全体を牽引していくことになります。
上の写真は第一次世界大戦の勃発を描いた当時の絵葉書です。
鈴木商店は海外支店・出張所の創設・拡充をはかり、世界中に船と鈴木商店独自の通信網を張り巡らせました。鈴木の方が情報入手のスピードは速いと他の商社も一目置いていました。明治45(1912)年には入社3年目の高畑誠一がわずか25歳でロンドンに赴任。当時、「船」、「情報」、「人材」といった世界と戦うための鈴木商店の基盤は整っていました。
開戦当初は、ショックからわが国の貿易・海運業界は大混乱となり深刻な不況に陥ります。しかし、金子直吉は世界中に派遣していた若手社員から送られてくる電報を見て、世間の予想に反し大戦が長期化し軍需品が暴騰することを予想。これを千載一遇の大好機ととらえ、開戦から3か月後の大正3(1914)年11月に一大勝負に出ます。
まずは銑鉄、鋼材に着目し、ロンドン支店長・高畑誠一に異例の電文"BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE"(鉄と名のつくものは何でも金に糸目をつけず、いくらでも買いまくれ)と一斉買い出動の大号令を発信し、イギリスの鉄、続いて米国の鉄にも手を拡げていきます。
次に金子が目をつけたのは船舶でした。川崎造船所、三菱造船所、石川島造船所、大阪鉄工所(現・日立造船)などに1万㌧級の貨物船を発注すると、その見返りに造船用の鋼材を大量に売り込み、続いて砂糖、小麦などあらゆる商品に対する買い出動を実行。大号令時、当時の会計主任・日野誠義(後の本店支配人)に「今日以後は鈴木の信用と財産とを存分に利用し、借りられるだけの金かき集めるよう。とにかく、めくらめっぽう、まっしぐらに進む、だから戦闘力を鈍らせるようなことは言ってくれるな。よくよくダメになった時には、自分にだけそっと言ってくれ」(「私の履歴書・高畑誠一」[日本経済新聞社編]より)と指令して一斉に思惑買を実行しました。
高畑誠一(上の写真)は、「私の履歴書」の中で当時の様子を次のように記しています。
「鈴木商店は緒戦で大勝利を収めた軍隊のようだった。従来の積極商法に拍車がかかったから、それ以後は弾丸列車のように突進を始めた。それが金子商法だった。」
世間から金子は気が狂ったと思われたらしいのですが、金子の予想は見事に的中。3、4カ月後の大正4(1915)年の2,3月ごろにはあらゆる商品が一斉に暴騰。鈴木商店はこの3,4カ月だけで数千万円もの巨額の利益を得ます。これを機に鈴木商店は急成長を遂げ、大正6(1917)年には鈴木商店の売上高はGNPの1割に相当する15億4,000万円を記録。三井物産の10億9,500万円を大きく凌いで文字通り日本一の大商社に躍り出ました。
第一次世界大戦勃発による大戦景気は、わが国の資本主義経済にかつてないほどの大拡張をもたらし、特に重化学工業や繊維産業の伸長が著しく、「戦争成金」が続出しました。
鈴木商店と密接な取引関係にあり、金子の盟友・松方幸次郎が社長を務める川崎造船所も神戸の造船所に注文が殺到する中、「ストックボート」という船舶の見込み連続建造に踏み切り大成功を収めます。
「戦争成金」は莫大な戦争利得者として特に造船業,海運業に顕著にみられ、とりわけ神戸の船舶業界はロンドンを除くと世界第一の活況をみせ、「三大船成金」と呼ばれた勝田銀次郎(*1)、内田信也(*2)、山下亀三郎らのいわゆる「船成金」を生み、神戸が全体として成金色に染まったほどだったと伝えられています。
(*1) 愛媛県松山市に出生。勝田商会(後・勝田汽船)を創業。後、神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長などを歴任。
(*2) 茨城県行方郡に出生。三井物産に入社。その後内田汽船を創業。後、衆議院議員、鉄道相、農商相、農相などを歴任。
山下亀三郎については次の人物特集をご覧下さい。
上の写真は、大戦バブルの頃の成金の様子を昭和初期に描いたものです。
なお、金子直吉は大正4(1915)年11月1日にロンドン支店の高畑誠一にあてた長さ6.16メートルにおよぶ「三井三菱を圧倒する乎か、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也」で有名な手紙を認めています。この手紙は「天下三分の宣誓書(宣言書)」と呼ばれ、鈴木商店の絶頂期を象徴するものとして知られています。
「天下三分の宣誓書」については次の「鈴木商店の歴史」をご覧下さい。
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