神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第23回「人造絹糸ベンチャー」をご紹介します。
2016.11.10.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ (23)人造絹糸ベンチャー 夢の繊維 東北で追求」が、11月6日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は険しい山に囲まれ、かつて上杉家15万石の城下町として栄えた米沢市が人造絹糸(レーヨン)発祥の地であるとの記述から始まります。続いて米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の教授として人絹(人造絹糸)の開発に没頭していた秦逸三に鈴木商店の金子直吉が研究資金を提供したこと、秦の筆舌に尽くしがたい苦労話、秦と東大の同期であった久村清太のコンビにより日本初の大学発ベンチャー企業ともいえる帝国人造絹糸(現・帝人)の設立に至ったことなどが描かれています。
世界で初めて人絹が生産されたのは明治25(1892)年のことです。フランスの科学者シャルドンネが、パリ万国博覧会で大賞を得た後に世界最初の人絹製造工場を建設し操業を開始。その翌年に英貿易商のリネル(元・高知藩校の教師、後に神戸の居留地14番館で貿易商を営む)が日本に初めて人絹を取り寄せました。
そして神戸を拠点としていた鈴木商店の金子直吉も人絹に出会い、以来、金子はセルロイドと人絹(化学的に製造する絹の代用的製品)を製造する夢を抱きます。
金子が人絹に興味をもった理由は、当時は鈴木商店が樟脳の取引拡大を目指して台湾に進出した頃であり、樟脳からセルロイドそして人絹が製造できることに着目したためです。セルロイドに関しては明治41(1908)年に鈴木商店、岩井商店、三菱の3社の合弁にてセルロイド製造工場(日本セルロイド人造絹糸、後・ダイセル)を立ち上げ、量産化を開始します。
金子は、日本人に共通の「高級な絹ものを身に着けたい」という「御蚕包み」の夢を人絹で実現しようと考えていましたが、樟脳を原料とする製造方法がなかなか確立できませんでした。
そんな折、金子は東京帝国大学工科大学応用化学科(現在の東京大学工学部応用化学科)出身の二人の人物に出会います。その二人とは、久村清太(冒頭の写真左)と秦逸三(同写真右)です。
久村は天才肌の化学者で、在学中に「艶消しレザー」の特許を取得。金子直吉と鈴木商店傘下の東レザーの常務・松島誠の認めるところとなります。
久村は特許を現物出資し、鈴木商店と合弁で、明治40(1907)年にゴム・皮革製品を製造する東京レザー合資会社を設立。同社は翌年、社名を東工業に改称し、久村は技師長に就任します。久村はレザーの研究の傍らビスコースの研究を開始し、人絹の製造にまで研究を発展させていきます。左の写真は東京レザーの研究所です。
一方の秦は、大学卒業後脳専売局神戸製造所に就職した後、神戸税関に転職し輸入人絹糸の通関業務を担当しましたが、大学で専攻した応用化学を活かす仕事を求めて金子の自宅を訪問します。その頃、金子は日本セルロイド人造絹糸の設立を決意し、人絹の事業化に非常に強い関心をもっていたことから、秦に人絹の研究を勧めます。
その後、秦は東レザーの研究室に久村を訪ね、久村は人絹について語り、秦自身も人絹の研究について興味を深めていきました。
明治45(1912)年、秦は米沢高等工業学校(*)応用化学科の講師として米沢に赴任(翌年には教授になります)。同校は当時全国で6校しかない高等工業学校の一つでした。
その中でも応用科学科が設置されたのは、東京・大阪・米沢の3校だけで、当時の校長・大竹多気は工部大学機械科出身の工学博士で、上杉鷹山の産業振興により地元米沢で盛んであった毛織物の権威でした。同校は図書・実験・機械の充実を図り、それらの豊富なことでは全国一であったといいます。
(*)旧米沢高等工業学校本館の建物(上の写真)はルネッサンス様式を基調とする木造2階建で、山形大学が所有しており、昭和48(1973)年に国の重要文化財に指定されました。現在は資料館として公開され、2階には「秦逸三教授記念展示室」が設けられています。
秦は金子、久村の人絹に関する話を念頭に本業の授業が疎かになるほどビスコース法による人絹製造の研究に熱中し、上司や同僚の教授たちとは肌が合わず研究室の薬品の使用を禁止され、自らの給与から研究費を捻出しなければならず、食べる米がなくなったことさえあったといいます。
秦は研究費の援助を要請するため久村とともに神戸の金子を訪問し、金子は秦の窮状を理解し、人絹の研究費として年間1,200円を米沢高等工業学校に寄付します。左の写真は同校の秦の研究室(右端が秦逸三)です。
鈴木商店(金子)の支援を受けるも秦の研究は困難を極め、疲労と二硫化ガスの中毒から数度倒れ、また講義も忘れるようになり周囲の反感は強まりました。しかし大竹校長(左の写真)は秦が講義を忘れた際にはそれを代行するなど、秦を励まし続けました。
大正4(1915)年、金子は大隈内閣誕生祝賀会に出席したその足で米沢に赴き、秦の実験室を訪れて説明を聞き人絹の事業化を決意します。
「煙突男」金子の人絹生産に対する熱意を知った米沢市、地元財界は金子を米沢城址にあった招遷閣(右の写真)に招待し、工場を米沢に設けることを懇望し、金子に対し旧藩主上杉斉憲が維新後の藩士の職のために設立した旧製糸工場の無償での提供を申し入れます。
金子はもっと立地条件のよいところで本格的な工場を造りたいと考えていましたが、米沢市や秦を支援し続けた大竹校長の熱意を考慮し、米沢に工場の建設を決断します。ただし、金子は「ただより高いものは無い」と5,600円でこの廃工場を買い取りました。
同行した松島誠は、「前途の見通しの立たぬ事業を失敗しては鈴木の名にかかわる。あまり人目につかぬ米沢で始めるのもよかろう」と金子に具申したといいます。久村も金子に「事業化は半年早い」と忠告するほど、人絹の事業化は不安を抱えていたのです。
こうした周囲の反対を押し切った背景には、金子が「御蚕包み」の夢の他に紡績業は加工業でマージンは薄いが化学による繊維生産事業の利潤の高さに魅力を感じていたこと、そして綿花のように原料を海外に依存せず、パルプなどの国産原料で製造できることから国益に適うと信じていたからです。こうして、大正4(1915)年に東レザー分工場米沢人造絹糸製造所が設立されました。
工場は大正5(1916)年5月に操業を開始し、サンプル品を客先に提示しましたが、「この糸には光沢がない。これは人造絹糸ではなくて人造綿糸だ。1ポンド80銭なら買っても良い」と当時の原価10数円を遥かに下回る値段を提示され散々でした。
左の写真は米沢人造絹糸製造所で製造された初期の人絹です。
こうした状況から秦は久村に応援を頼み、金子も久村に米沢行きを勧め、久村は重い腰を上げます。秦も人絹事業に専念するため米沢高等工業学校の教授を辞任し研究に専念します。こうして秦、久村の米沢における二人三脚が始まりました。
後に二人はそれぞれ欧米の工場を視察し、苦難の末にわが国初のビスコース法による人絹の製造を実現しました。そして、このことが大正7(1918)年の帝国人造絹糸(後の帝人)の設立へとつながっていきます。これら一連の動きは大学発ベンチャー・ビジネスの先駆けと言ってもいいでしょう。
秦と久村の二人は、昭和3(1928)年に"ビスコース法レーヨンの工業化"により藍綬褒章を受章しました。昭和27(1952)年9月、帝国人造絹糸は二人の偉大な功績を讃えるため、秦逸三の胸像を三原工場に、久村清太の胸像を岩国工場に設置しました。
帝人の機構改革の一環により三原事業所(旧・三原工場)が繊維関連の製造を海外に移管したことを機に、帝国人造絹糸の前身である鈴木商店傘下の東レザー分工場米沢人造絹糸製造所の設立から100年目に当たる平成27(2015)年、帝人から同社発祥の地・米沢市に秦逸三の胸像が寄贈され、平成28年9月25日に「松が岬第2公園」(米沢城址)に関係者が参集し、移設除幕式が開催されました。(上の写真)
この除幕式の詳細については、当記念館の2016.9.28付編集委員会ブログをご覧下さい。
秦逸三と久村清太については次の人物特集をご覧下さい。
下記関連リンクの神戸新聞社・電子版「神戸新聞NEXT」から記事の一部をご覧下いただくことができます。