神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第25回「鉄禁輸に市民決起」をご紹介します。
2016.11.21.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ(25) 鉄禁輸に市民決起「船鉄交換」民間外交実る」が、11月20日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、神戸・湊川公園でのアメリカの鉄禁輸に抗議する1万人を超える市民大会の場面から始まります。続いて政府が進めていた「日米船鉄交換交渉」が決裂した後、金子直吉が立ち上がり民間代表として駐日米国大使・モリスと交渉を再開し、難交渉の末に結着したこと、交渉成立から2年余りで交換船45隻がアメリカに引き渡されたこと、川崎造船所では12隻、播磨造船所では5隻の貨物船(船鉄交換船)を建造したことなどが描かれています。
第一次世界大戦当時の日本は鉄鋼の生産が少なく、船舶の建造に使用する鋼材は欧米からの輸入に頼っていました。ところが大正6(1917)年8月、突然アメリカがわが国に対し鉄材輸出禁止令を伝えてきます。この禁止令は、わが国の造船事業を即実行不可能にすることを意味し、船業界に大きな衝撃を与えました。
当時わが国がアメリカへ注文していた鉄材の全量は約463,000トンといわれ、そのうち鈴木商店鉄材部の取扱量は116,000トン(およそ25%)で最も多くを占めていました。また、鈴木商店を通して鉄材を確保していた川崎造船所も造船計画が宙に浮くことになりました。直ちに、鈴木商店、川崎造船所、三井物産、大阪鉄工所の4社が発起人となり「日米船鉄交換同盟」を結成して鈴木商店内に仮事務所置き、鉄材輸出禁止令の解禁運動を展開しました。
同年9月1日には金子直吉や神戸市長が発起人となり、危機感を深めた1万人を超える市民が決起し神戸・湊川公園において市民大会が挙行されました。
一方、日米政府間の"日本は鋼材を輸入する代わりに船舶を輸出する"という「船鉄交換」交渉は不調に終わります。ここで金子直吉は敢然と立ち上がり、大正7(1918)年3月、民間代表として駐日米国大使のローランド・S・モリスとの直談判に臨むことになりました。金子は周到な情報収集・準備を経て数回におよぶ交渉を続けますが難航します。しかし、最後にはモリスは金子の誠意と公明な態度に動かされ、両国双方がメリットを享受することができるぎりぎりの妥協点を見出し、ついに日米船鉄交換交渉が結着します。
船鉄交換契約が成立すると、大正7(1918)年5月に神戸・新開地の有名料亭「常盤花壇」でモリス大使一行の歓迎会が開催されました。その席上で、大使は金子直吉の功績をたたえるとともにその人物の偉大なることを表明しました。
上の写真は、常盤花壇にモリス大使一行を招待した時の様子です。写真の中央列右から3人目がモリス大使、その左に外国人をはさんで金子直吉です。
■米国モリス大使一行歓迎会(神戸「常盤花壇」において)
「大正7(1918)年5月28日正午、兵庫県はアメリカのモリス大使一行を神戸の常盤花壇に招待した。その席上、同大使より一場の挨拶があったが、それは同氏が着任早々、船鉄交換の国際的な大問題を解決して、日米両国に多大の貢献をなし得た喜びを述べたものであって、終りに金子直吉の功績をたたえて次のように語った。
『一言個人的な思い出を語るが、そもそも予が日米船鉄交換の契約を締結するに当たって、諸君の代表となって、数カ月にわたり、アメリカ大使館の事務室において、予と交渉を重ねられたのは金子直吉氏であった。同氏が賢明でしかも忍耐に富み、常に機敏で公平な判断力と寛大な態度を維持し、よく幾多の困難を排して、ついにこの契約をまとめられたことに対して、予は称賛してやまないものである。このような偉大な人物には、予が弁護士就職以来25年の間一度も会ったことがない。このような偉人を市民の一人として持っておられる神戸市および神戸実業家諸君は、これを大きな誇りとされるべきである』」(「播磨造船所50年史」より)
上の写真は船鉄交換契約締結を記念して米大使モリスから贈られた置時計です。(この置時計は現在、太陽鉱工が神戸市立博物館に寄託しています。)
ちなみに、船鉄交換契約に基づく播磨造船所の建造実績は次のとおりでした。
(1)第1次船鉄交換契約によるもの
EASTERN KING(第7與禰丸)[4,924重量トン] (上の写真[右])、EASTERN SHORE(第8與禰丸)[11,054重量トン]、および浦賀船渠へ外注したEASTERN CROSS(第6霧島丸)の3隻、合計22,757重量トン。
(2)第2次船鉄交換契約によるもの
EASTERN PILOT[4,951重量トン](上の写真[左])、EASTERN SOLDIER(*)[10,626重量トン]の2隻、合計15,577重量トン。
大正7(1918)年8月21日に行われたEASTERN SHORE(第8與禰丸)の進水式において、金子直吉は播磨造船所の従業員に対し次の訓示を述べています。
「楠木正成が赤坂場で戦った時、城とは名ばかりで、何等の防禦設備もなく、武器も道具も乏しかったが、正成を信頼する将兵は一丸となり、奇知を縦横に働かせて、よく数十倍にも及ぶ敵の大軍を悩ますことができたのである。播磨造船所も今正に赤坂城にひとしく、設備も器具も未完成で、他の造船所に比べて誠に貧弱であるが、どうか諸君は部下をよく統率して知謀をめぐらし、先進造船所に負けないような立派な船を造ってもらいたい」(「播磨造船所50年史」より)
また、大正9(1920)年4月3日に行われた「EASTERN SOLDIER」の進水式はアメリカ船舶局代表など数百名の来賓を迎えた華やかな式典となりました。
上の写真は「EASTERN SHORE」(第8與禰丸)の進水式の様子(左)と「EASTERN SOLDIER」の進水式記念絵葉書(右)です。
船鉄交換契約によりで日本からアメリカに輸出された船舶は45隻(376,109重量トン)、アメリカ側からの鉄材は284,986トンに達し、船舶輸出と鉄材確保の両面で日本の造船界に巨額の利益をもたらすとともに、造船技術面において画期的な革新をもたらしました。
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