神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第29回「大商人 2人の西川」をご紹介します。
2017.1.16.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第4部 荒波、そして(29) 大商人 2人の西川 経営の近代化 意見対立」が、1月15日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、昭和39(1964)年10月の東京五輪女子バレーボールの決勝で優勝した「東洋の魔女」と呼ばれた選手たちをたたえる西川政一日本バレーボール協会会長(元・鈴木商店社員、後・日商(現・双日)社長で鈴木商店支配人・西川文蔵の女婿)の場面から始まります。続いて、西川文蔵の生い立ち、金子直吉が文蔵の仕事ぶりに心酔していたこと、文蔵の鈴木商店における重要な立場、しかしわずが46歳で早世したこと、その後文蔵の女婿となった西川政一の生い立ちとその後の活躍などが描かれています。
鈴木岩治郎が急逝した明治27(1894)年、東京高商(現・一橋大学)を中退した近江商人の血を引く西川文蔵(左の写真)が貿易商人への道を志し、鈴木商店に入店します。西川は明治7(1874)年、滋賀県高島郡今津町(現・高島市今津町)に出生。鈴木商店の学卒者第一号(待遇)でした。
数字に強い西川は金子直吉が担当する樟脳部に配属されると持ち前の才覚を発揮し、明治41(1908)年、34歳のとき金子直吉の推薦で支配人となります。当時の鈴木商店は金子の采配により製造業への本格的進出を柱とする大躍進の緒に就いた頃に当たりますが、補佐役たる西川の存在があったからこそ、金子は縦横に活躍することができたといえるでしょう。
金子自身もそのことをよく自覚しており、自分の長男に"文蔵"と名をつけるほど西川を信頼し、ゆくゆくは西川を自分の後継者として考えていました。西川は自らに"脩竹"という雅号をつけていたようにまさに竹を割ったような気性であったといいます。
西川は第一次世界大戦勃発、大戦終結による反動不況、米騒動に伴う本店焼き打ちの各局面において個人経営の色彩の強い鈴木商店を近代的な体質に脱皮させようと腐心しました。
西川は高畑誠一、永井幸太郎らとともに資金を銀行からの借入だけに頼らず、株式を公開して広く外部に求めるという近代的な考え方を受け入れるようよう金子直吉に進言しましたが、金子は鈴木商店は鈴木よねを筆頭とする鈴木家のものという思いが強く、骨身を削って得た利益は鈴木の利益として独占すべきで、株主に配当するぐらいならば借入をした方がましであるという信念を持っていたため、株式の公開や外部から経営に介入されることについて決して首を縦に振ることはありませんでした。
また、西川は大正中頃から「高商派」と呼ばれた神戸高商出身社員を中心とする勢力と高知商業出身者を中心とする「土佐派」と呼ばれた勢力の間に確執が強まった際にはが両者の間に入って融和に努めるなど、鈴木商店にとっては余人を以て代えがたい人物でした。
上の写真は大正5(1916)年11月に撮影された西川文蔵、京子夫妻と子供たちです。
西川文蔵は鈴木よねとともに家族主義的な社風の醸成にも尽力し、若手社員を公私ともに面倒をみることで鈴木商店、そして日本を支える人材を育成しました。中でも見習い店員の一人、須原政一を見込んで書生として自宅に住まわせ、私立育英商業、神戸市立神港商業学校(現・神戸市立神港橘高校)、さらには一旦鈴木商店を退社させて神戸高商(後・神戸大学)に通わせました。
大正7(1918)年の米騒動に端を発し鈴木商店本店が焼打ちに見舞われた際、西川文蔵は鈴木商店の潔白の弁明に追われ大正9(1920)年、それまでの心労が重なったためか46歳の若さで急逝します。金子は自らを西川の「未亡友人」と名乗るほどに西川の死を悲しみ、西川を偲んで次の一句を残しています。
梧桐の散り相もなき葉色哉 未亡友人 白鼠
左の写真は辰巳会の創立15周年を期して昭和50(1975)年5月15日、祥龍寺(神戸市灘区篠原北町)の一角に建立された西川文蔵の頌徳碑です。(ちなみに、5月15日は西川文蔵の命日です)
須原(後・西川)政一(下の写真)は明治32(1899)年9月、兵庫県氷上郡竹田村(現・丹波市)にて出生。父親は農業を営む傍ら、村の何でも屋(現在のスーパーマーケット)を経営していました。須原は地元の竹田小学校で学び、大正3(1914)年の春、同校の西山校長の紹介で鈴木商店に使い走りのいわゆる"ボンさん"として入社します。
西川文蔵の支援を受けた須原は神戸高商を卒業後、再び鈴木商店に入社し、終生尊敬の念を持ち続けた落合豊一とともに穀物分野で活躍します。その後須原は西川文蔵の二女・明子と結婚し西川政一として文蔵の後継者となりますが、結婚披露宴の直前(昭和2年4月2日)に鈴木商店が破綻し、結局結婚披露宴も新婚旅行も行われずじまいになってしまいました。
鈴木商店破綻後、西川政一は高畑誠一、永井幸太郎に誘われる形で新会社・日商(後・日商岩井、現・双日)の創設に参画。昭和3(1928)年2月8日、日商は鈴木商店の残党わずか40名でスタートします。
"ボンさん"からスタートした西川政一は、鈴木商店の破綻後は日商において太平洋戦争開戦直前のニューヨーク支店駐在、終戦に伴う抑留生活を経て幹部社員としての道を歩みつつ世界各地を駆け巡り、昭和33(1958)年、日商第三代社長・落合豊一死去の後、第四代社長に就任します。
昭和33(1958)年11月8日、西川は日商の社長に就任して初めての記念集会(創立記念日)での社長訓話において、他社に負けないfightと自他ともに許すsincerityを以てZ旗の下、御健闘願いたいとし、最後に全社員に誓ってもらうべく、戦前海軍兵学校で唱えられていた次の「五省」を提示しました。このことからも、当時の西川の覚悟のほどが窺えるでしょう。
1. 至誠に悖(もと)るなかりしか
2. 言行に恥づるなかりしか
3. 気力に缺(か)くるなかりしか
4. 努力に憾(うら)みなかりしか
5. 無精に亘(わた)るなかりしか
その後昭和43(1968)年、西川政一は岩井産業との合併を成功裡に導き、日商岩井の初代社長に就任します。
左の写真は昭和43(1968)年5月15日、東京のクラブ関東で行われた日商・岩井産業の合併調印式で握手をする日商・西川政一社長と岩井産業・岩井英夫社長です。
一方で、西川が30年余りの長きにわたり日本バレーボール協会の会長としてわが国のバレーボールの普及・発展に力を尽くしたことも決して忘れてはならない偉大な功績です。
西川は神戸高商時代にバレーボールを始め、大正12(1923)年に開催された極東大会などで日本代表選手として活躍。自宅を事務所として関西排球協会(日本バレーボール協会のルーツ)を結成し、バレーボールの普及活動に奔走します。昭和23(1948)年、日本バレーボール協会会長に就任。また、国際バレーボール連盟副会長としても縦横に活躍しました。
昭和39(1964)年10月の東京オリンピックにおいて駒沢体育館にて「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールチームに金メダルを授与したのは西川政一でした。西川はこれらの功績により、わが国バレーボールの育ての親といわれています。
上の写真は東京オリンピック優勝後に宮中に招かれた女子バレーボールチームと西川政一(当時65歳)です。(西川の右は昭和天皇、皇后両陛下です)
左の写真は 日商時代の昭和41(1966)年9月、大手町の貿易会館にあった社長室の様子です。(窓の外には銀行協会のレンガ造りの建物が確認できます。)
西川政一社長(右側、当時67歳)が記者と対談中のひとコマで、左手奥には鈴木よねと金子直吉の胸像が安置されています。このことからも、西川の鈴木商店に対する変わらぬ思いを窺うことができるでしょう。
下の写真は西川が日商の東京支店長時代(当時51歳)に事務所に掲げた、大変ユニークな色紙です。
厳禁
昭和26年7月 支店長
1.四六時中『無駄』
1.二十三時以後の麻雀
1.二十二時以後の酒類
1.二十一時以後のランデブー
違反者には「天罰テキメン」。数年中に必ず「病者の憂目」を見るに至らん。
以上
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