神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第34回「北の大地で再起期す」をご紹介します。
2017.2.20.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第4部 荒波、そして(34)北の大地で再起期す 次は炭鉱 飽くなき事業欲」が、2月19日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、鈴木商店破綻後、金子直吉が鈴木の再起をかけて開発した羽幌炭砿の現在の様子から始まります。続いて、金子が有馬温泉の旅館銀水荘兆楽を訪れて新たなビジネスの構想を練り、今も当時金子が詠んだ歌が記された短冊が残されていること、金子が太陽曹達の相談役として新事業を次々に手掛ける中、羽幌炭砿は「中小炭鉱の雄」と呼ばれ、最も成功した事業となったこと、ヤマにはホッパーや集合住宅などの遺構が残り、一昨年に開催された羽幌炭砿大同窓会には多くのゆかりの方々が集まり、今も鈴木の記憶と金子の足跡が北の大地に刻み込まれていることなどが描かれています。
鈴木商店の破綻(昭和2年4月2日)後、高畑誠一、永井幸太郎らが整理会社・株式鈴木(株式会社鈴木商店)から鈴木商店直系の子会社・日本商業に営業を移譲し、また鈴木商店の有望な各種代理権を継承して新会社「日商」(現・双日)を設立すべく立ち上がるも、金子直吉は、鈴木商店の再起は鈴木の名でなくて何ができようか、鈴木は多くの関係会社があっての鈴木であるという考えであったため、鈴木の商事部門だけを切り離して新会社を設立することは金子にとっては想像すらできないことでした。
しかし、台湾銀銀行、横浜正金銀行など銀行団をはじめとする大口債権者は、新会社には鈴木商店の体質を持ち込まず若手を中心として再建をはかることを条件としていたため、金子直吉の新会社への参加は認められず、結局さすがの金子もこの方針に反対することは不可能となりました。
整理会社・株式鈴木解散後、ロンドンのマガジソーダ社が扱うイギリス領ケニア産のソーダ輸入のため大正8(1919)年に設立された鈴木商店の子会社・太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)は、持ち株会社に改組され昭和6(1931)年、同社の定款には「各種事業に対する投資」の目的が追加され、同年9月に高畑誠一が代表取締役に就任すると、同時に金子直吉が相談役に就任します。その後太陽曹達は旧鈴木系列企業の株を順次買い戻し、金子は再び事業経営に乗り出して行きました。
以後、金子は昭和19(1944)年2月に77歳で亡くなるまで、鈴木再興の悲願成就のため、飽くことのない事業の鬼として太陽曹達本社(神戸市栄町通3丁目)の2階最奥の部屋を拠点として奮闘を続けることになります。
金子直吉が復活した企業は全盛時の鈴木商店とは比ぶべきもありませんが、次に掲げる太陽産業(太陽曹達に後身)の日本輪業ゴム(現・ニチリン)、鈴木薄荷を始めとする20有余の各社への広がりを見るにつけ、かつて「煙突男」の異名を馳せた金子の老いてなお盛んな事業意欲を窺うことができるでしょう。
■昭和15(1940)年頃の太陽産業(太陽曹達の後身)の事業(「太陽鉱工30年史」より)
〇直営事業
(鉱業)
モリブデン:大川目鉱業所(岩手県)、金:大良鉱業所(鹿児島県)、銅:真金鉱山(山口県)、八坂鉱山(山口県)、青森鉱山(青森県)、水銀:日高鉱山(北海道)、硫黄:万座鉱山(群馬県)、黒煙:玉尚鉱山(朝鮮)、鉛・亜鉛:儉徳鉱山(朝鮮)、蝋石:鼎鉱山(朝鮮)
(研究事業)
東北チタン工業所(仙台市)、太陽産業科学研究所(兵庫県武庫郡)、日本蚕精絹糸研究所(静岡県)
〇直営会社
羽幌炭砿鉄道(石炭並二鉄道運輸)、樺太ツンドラ工業(ツンドラ製品)、日沙商会(英領ボルネオニ於ケルゴム栽培、石炭其他ノ諸事業)、日本輪業ゴム(ゴム、人造樹脂工業並ニ航空機部分品)、東神興業(工業用土地ノ埋築、土木)、半島土地建物(土地建物ノ経営)、帝国樟脳(樟樹殖林、樟脳製造)、東産業(事業投資)、鈴木薄荷(薄荷製造、日本天然物ノ輸出)、東洋絹毛(人絹、擬毛糸)、興亜鉄工廠(鉄工、機械)、伊予陶器(輸出向陶器、耐火物製造)、大成商事(北海道ニ於ケル物産売買)、防石鉄道(鉄道運輸)
〇関係会社並ニ其傍系ノ会社
神戸製鋼所(機械軍需品)、東洋金属(アルミニューム並ニ金属、マグネシューム製造製錬)、大日本塩業(製塩)[傍系会社:朝鮮製塩工業、満州塩業、南日本化学、華中塩業、山東塩業、北洋塩業、南樺太塩業、新日本運輸、台湾製塩、東亜塩業]、関東州加里工業(加里、臭素、塩化マグネシューム製造)、日本樟脳(樟脳製造、精製、樟樹殖林)、日商(輸出入貿易、製造工業) [傍系会社:日商繊維工場、東洋フェルト、東洋機械製作所、日本発條、辰巳商事、大中華造紙廠、黄浦鉄廠]、米星産業(葉煙草並ニ巻煙草製造、投資) [傍系会社:華北葉煙草、中支那葉煙草、協同煙草、国友鉄工所]、外に東洋ファイバー、日本冶金、日本香科薬品、朝鮮物産
ここで話は明治39(1906)年に遡ります。当時鈴木商店は北海道における先進地・函館と経済圏を二分する商業港湾都市・小樽に進出し、三井物産と競って砂糖、焼酎、食塩、大豆粕などの食料品の取扱いを中心に急速に事業拡大をはかっていました。
そんな中、金子直吉のもとに鈴木商店小樽支店長・志水寅次郎を通じ、北海道銀行の担保入っていた苫前炭田(留萌の北方に位置する)の鉱区譲渡の話が舞い込みます。これが後の羽幌炭砿の鉱区でした。
この話を受け、鈴木商店は「石炭産業は必ず国策的な産業になる」が持論の金子の下で独自に実施した地質調査の結果を踏まえ、絶頂期の大正7(1918)年に苫前炭田の30数鉱区を買い取りました。
鈴木商店破綻後、羽幌炭砿の鉱区は台湾銀行と北海道銀行に二分して担保に入っていましたが、鈴木再興のプランを練っていた金子は、さっそく羽幌炭砿の鉱区を買戻し昭和6(1931)年、太陽曹達は築別・羽幌両地区の炭鉱開発の方針を固め、両地区の実地調査を開始しました。(上の写真は苫前炭田地質図です(「羽幌町史」より))
昭和35(1960)年、羽幌炭砿が創立20周年を迎えるにあたり、当時羽幌炭砿鉄道の会長であった高畑誠一(左の写真)は、金子直吉の羽幌炭砿に対する思いについて次のように語っています。
「その後鈴木の整理も曲りなりに大体片付いたので、さすがの金子翁も何か一つまとまった事業を起こして捲土重来せねば主家に対して相済まぬと感じられたのであろう。生来事業が何よりも好きな金子翁であるから種々画策された結果、羽幌炭砿を買いもどして、これで一旗挙げるのが何よりも再興の早道と考えられて太陽鉱工が債権銀行から羽幌炭砿の鉱区を買いとり、付近の連続鉱区も順次、新規に入手したのである」(羽幌炭砿の広報誌「石炭羽幌」昭和35年7月10日号より)
また、城山三郎著の「鼠」では、鈴木商店破綻後にかつての部下が訪ねてきた際に、「『少し金が欲しいのう。10万両ほど欲しい。実は今、考えていることがある。その方面に使いたいんじゃ』と石炭液化の必要性を説き出した」といった記述があり、金子は羽幌炭砿を軸に神戸製鋼所に対する熱源供給とあわせて石炭液化の量産化を念頭に置いていたと思われます。
太陽曹達(昭和14年、太陽産業に社名変更)は昭和14(1939)年、「羽幌鉄道」を設立します。当時は戦局が拡大する中、石炭の供給・販売面においても国の統制がおよび、国から全国の炭鉱に対して石炭の増産が要請される時代でもありました。
昭和15(1940)年2月、「築別炭砿」が開坑。同年7月の創立総会において太陽産業羽幌砿業所は「羽幌炭砿」に改称。社長に岡新六、専務取締役に金子三次郎、常務取締役に古賀六郎、支配人に町田叡光、監査役に谷治之助が選任され、経営陣は元鈴木商店の幹部や金子直吉の縁者が中心でした。(左の写真は昭和14年頃の太陽産業羽幌出張所・羽幌鉄道創立事務所です)
昭和16(1941)年3月、「羽幌鉄道」が「羽幌炭砿」を吸収合併し「羽幌炭砿鉄道」が誕生します。太平洋戦争が勃発した昭和16年12月には昼夜兼行の強行工事の結果、悲願の羽幌炭砿鉄道(「築別炭砿―築別」間16.6km)が開通。ほぼ同時に国鉄羽幌線の「築別―羽幌」間も開通します。"石炭産業は運搬業"といわれますが、ここにようやく石炭企業としての基盤となる輸送手段が確立します。(右の写真は当時の5860形蒸気機関車です)
創立当初は日中戦争に端を発した軍事体制の強化により日本が混迷を極めた時期と重なり、資金不足、人出不足、資金不足の中、羽幌炭砿の経営は苦難が続きました。
昭和20(1945)年以降の戦後の大混乱期には、羽幌炭砿は幾多の困難を乗り越えつつ合理化のスタートラインにつきます。昭和20年代後半には深刻な石炭不況の中、全社をあげて合理化を推進します。昭和25(1951)年の長期スト終結を機に労使協調の道を歩み始めた羽幌炭砿は、後ろ向きのムードが一掃され、更なる合理化・コストダウンをはかりつつ増産に邁進。出炭量は北海道の中小炭鉱のトップクラスに浮上します。
昭和31年、1人当たりの年間出炭量が大手炭鉱平均の2倍近い32㌧を超え(終戦当時はわずか7㌧でした)、コストダウンによる価格競争力において他社を圧倒。この頃から羽幌炭砿は「中小炭鉱の雄」と呼ばれるようになります。
そして、大手、中小を問わず非能率炭鉱の閉山が相次ぐ中、それまでの不断の合理化が結実し昭和36年度の出炭量がついに長年の夢であった100万㌧超え(101.6万㌧)を達成。昭和36(1961)年9月、羽幌炭砿鉄道は札幌証券取引所に上場を果たします。(右の写真は昭和30年代の築別炭砿の街並みです)
昭和32(1957)年7月、羽幌炭砿の躍進を象徴する大慶事、高松宮殿下ご夫妻のご来山が実現。羽幌炭砿にとってはまさに創業以来最大の栄誉というべき出来事でした。(左の写真は築別炭砿の坑内を視察される高松宮殿下ご夫妻です)
当時娯楽の殿堂といわれた「築炭会館」には、宝塚歌劇団、文学座、有名歌手が来山。昭和32(1957)年以降「羽幌飛行隊」として大活躍したスキー部、都市対抗野球大会にも出場した野球部、バレーボール部など体育部の活躍には目覚ましいものがあり、全国に「羽幌炭砿」の名が轟きました。
しかし、昭和37(1962)年には政府が策定した「貿易・為替自由化計画大綱」に基づき石油の輸入が完全に自由化されます。これに伴い石炭から石油へのエネルギー革命が一気に加速し、羽幌炭砿は襲いかかるエネルギー革命の荒波に抗しきれず昭和45(1970)年11月2日、ついに閉山を余儀なくされ、30年余りの歴史に幕を下ろしました。
朔北の地で金子直吉が鈴木再興の夢をかけて開発に挑み、「中小炭鉱の雄」と呼ばれ、大手炭鉱から一目も二目も置かれた羽幌炭砿は平成27(2015)年に閉山から数えて45年を迎え、同年9月には羽幌町において羽幌炭砿大同窓会と銘打ち、全国から200名を超える元住民、関係者、炭鉱・鉄道愛好家の方々が集まり記念のシンポジウムが盛大に開催され、あわせて三山(築別炭砿・羽幌本坑・上羽幌坑)を巡るバスツアーが実施されました。
羽幌炭砿の三つの山には、現在もホッパー(貯炭場)、選炭工場、運搬立坑巻上げ塔、炭鉱アパート、坑口浴場ほか多くの施設や構築物が無人の原野に草むらに覆われた状態で点在しています。(上の写真は羽幌本坑の「運搬立坑巻上げ塔」、下の写真は築別炭砿の「貯炭場(ホッパー)」のいずれも現在の雄姿です)
これらの施設群については、平成19(2007)年11月に経済産業大臣により「我が国の近代化を支えた北海道産炭地域の歩みを物語る近代化産業遺産」として認定を受け、現在、地元の苫前郡羽幌町や札幌のバス・ハイヤー会社により三山を巡るツアーが企画され、誰でも遺構の探訪にでかけることができます。羽幌炭砿にご興味をお持ちの方は、是非一度羽幌町を訪れてみてはいかがでしょうか。
■羽幌炭砿の詳細については下記関連リンクの「地域等集>北海道(羽幌)」と鈴木商店の歴史>金子直吉のお家再興について の下部関連トピックス「羽幌炭砿のあゆみ」をご覧下さい。
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