神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第35回「大番頭の決意表明」をご紹介します。
2017.2.26.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第4部 荒波、そして(35) 大番頭の決意表明 育て上げた事業脈々と」が、2月26日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、神戸市立葬儀場で営まれた鈴木よねの葬儀の場面から始まります。そこで、金子直吉が決意表明ともいうべき弔辞を述べたこと、その後金子が鈴木ゆかりの企業の株式を買い戻し数十社の企業グループを形成したこと、その金子も昭和19年2月に77歳で世を去ったこと、金子は妻子には財産をほとんど残さなかったこと、今年2月2日によねの孫、鈴木治雄の「お別れの会」が開かれ鈴木の流れをくむ企業関係者、金子直吉、柳田富士松、高畑誠一の孫、ひ孫らが集まったこと、昭和35年に発足(実際には東西の辰巳会が統合して昭和36年に発足)した鈴木の親睦団体「辰巳会」が今も神戸と東京で開かれていることなどが描かれています。
明治19(1886)年、金子直吉(下の写真右)が20歳のとき鈴木商店に入店して以来、お家さん・鈴木よね(下の写真左)と金子の信頼関係は昭和13(1938)年5月によねが亡くなるまで終生変わることなく続きました。
明治27(1894)年6月、鈴木商店の創業者・鈴木岩治郎は事業の本格的な展開を目前にして急逝します。この時よねは41歳でした。よねは一部の親戚や友人の廃業して隠退したらどうかという意見を斥け、実兄の西田仲衛門と大阪辰巳屋の藤田助七を後見人として全面的に信頼していた二人の番頭、金子直吉(樟脳部門担当)と柳田富士松(砂糖部門担当)に鈴木商店の経営を委ねます。
よねの金子直吉に対する信頼は、明治29(1896)年に金子が外国商館への樟脳の旗売り(空売り)で巨額の損失を出し店が破産の危機に直面した時にもいささかも揺らぐことはありませんでした。この時よねは腹を立てるどころか小言一つ言わず、前記の西田や藤田と善後策を講じました。結局妙案はなく、金子は切腹覚悟で誠意を込めて頭を下げ交渉した結果、彼の熱意が通じ事なきを得ます。
昭和2(1927)年3月26日に鈴木商店が台湾銀行から融資打ち切りの最後通告を受け、同年4月2日に経営破綻を余儀なくされた時も、かねてからこのことを覚悟していたよねは泰然自若として顔色ひとつ変えなかったといいます。ことここに至ってもお家さん・鈴木よねの金子に対する信頼は変わらず、「たとえ店はこんなになっても金子が生きていりゃ千人力じゃ」と柳田富士松に洩らしたと伝えられています。
よねは、後年須磨の本宅から塩屋に移り閑居の日々を送る中、臨済宗妙心寺派管長から明治初年に廃寺となっていた神戸の「祥龍寺」再興の協力要請を受けます。
金子直吉と柳田富士松の二人に相談した結果昭和2(1927)年、よねの給与として積み立てていた報酬をすべて寄進することにより祥龍寺の再建が実現します。(左は神戸市灘区篠原北町の現在の祥龍寺です)
爾来、同寺にはよねの巨大な胸像のほか金子直吉、柳田富士松、西川文蔵の頌徳碑、辰巳会の供養塔などが建立され、同寺と鈴木商店ならびに鈴木ゆかりの人々との密接な関係は今日まで続いています。
上の写真は鈴木商店全盛期の大正9 (1920)年当時の須磨の鈴木本家。左から鈴木よねの三男岩蔵妻・慰子、岩蔵長女・英子、長男二代目岩治郎妻・兎三、鈴木よね、二代目岩治郎、岩蔵次女・貞子(岩治郎に抱かれている女児)、二代目岩治郎次女・政江、右端二代目岩治郎長女・ちよ(高畑誠一夫人)です。
よねは、人の上に立つのに十分な度量と資質を備えていたほか、女子として一通りの教養を積み、晩年は時々店に出勤するかたわら温順閑雅の生活の中に謡曲を習い文筆にもいそしみ、また和歌をも嗜み常に人から頼まれて短冊や色紙に自作の和歌を書いていました。大正13(1924)年10月頃、高畑誠一がよねに樽柿を贈った時、その礼状の末尾には次の歌が書かれていました。
樽つめの 柿おくられて うれしくも 日取かぞへて みるぞたのしき
また、昭和12(1937)年12月15日、田宮嘉右衛門他506名が故・先代鈴木岩治郎の胸像と鈴木よね、金子直吉の寿像を造って贈った時、よねは次の歌を作りました。
おほけなや おのが二人の かほかたち されどもうれし 千代にのこらん
(「金子直吉伝」より)
このように、よねは晩年を穏やかに過ごしていましたが昭和13(1938)年5月6日、85歳の生涯を閉じます。5月17日に神戸市立葬儀場にて執り行われたよねの葬儀に際し、金子直吉は霊前にて"店員総代"として万感の思いを込めて弔辞を読み上げました。その大略(現代語訳)は次の通りです。
「当時鈴木に出入りする者で、等しく刀自の婦徳を慕わない者はなく、期せずして鈴木商店の名声を良くしその商業を隆盛させた。故柳田、西川および余らはこの時代においてまったく刀自の愛撫薫陶によって身を成した。故に爾来水火をも辞せず鈴木商店のために奮闘することを心に誓った。
明治二十七年、先代主人が没すると、商業を継続できないはずがないと主張し、遂に岩治郎氏を相続し、西田仲右衛門、藤田助七氏を後見人として、事実は刀自の主宰でカネタツ鈴木の名で砂糖、樟脳の商売を継続した。ここにおいて平素まことに温順閑雅そのものだった刀自は決して普通の婦女子ではなく事実国家的事業家だったことを証明するのに十分である。
刀自の一生を通観すれば鬚髯男子を瞠若させるに足る慨ありといえども、刀自は居常甚だ閑雅謹直で温容を自ら任じて喜ぶことはあっても怒ることはなく、自戒することはあっても人を責めず、部下の愛育に努めるがなんら教戒も訓戒もこれを加えず、ただ実物教材であたかも天日が万物を育成するかのように自然に誘掖し強化しそして人材となるのを待つのみである。だから往時数百の店員はこの温床に座して刀自の志を享け商売を知り、事業を解し、その利害得失を自得し、我らの今日があるのである。これは一般鈴木商店員が刀自から受けた海嶽の御恩と言わずして何と呼ぶのだろうか。
そして我らがこの温床にいた時において社会各般の盛衰興亡と鈴木商店の関係を見ると、悲喜こもごも至る。刀自はどんな大事に接しても自若として驚かず、あくまでその温容を失わなかった。我らの過失失計に起因するものでも一言も不平を言わず、少しもこれを咎めず静かにその事態の収拾に最善を尽くすことを望まれた。
我々は婦人としてその担の大なるに驚くと同時に、我らの失敗を寛容されたその態度に感涙を禁じ得なかった。しかし今やこの師父のような慈母のような刀自は溘焉として逝ってしまわれた。我ら店員一同は驚愕惜しく、所を知らずといえども刀自の齢既に高く、人生の齢として遺憾はないから、いたずらに号泣悲痛せず、ただ惜しむらくは我らの不憫にして刀自の生前において社礎の興新と事業の回復をさせられなかったことはこの上なく遺憾である。しかしながら皇天の照覧するところ必ず近い将来において誓ってこれを現実にし刀自の志を恢弘して刀自のご冥福を祈り奉りたい」(上の写真は祥龍寺に安置されている鈴木よねの胸像です)
よねが亡くなる少し前の昭和13(1938)年4月30日、日商は本店を天満織物ビル(大阪市北浜5丁目)から鉄筋コンクリート造り5階建ての広々とした新社屋(大阪市東区今橋3丁目)(左の写真)に移転しましたが、新社屋の土地は鈴木よねの兄であり後見人でもあった西田仲右衛門の所有地でした。
昭和12(1937)年の地鎮祭、定礎式には高畑誠一と永井幸太郎も出席しましたが、二人も日商と鈴木商店の深い因縁を感じたに違いありません。
一方、金子直吉は鈴木商店破綻後、財界の表舞台に立つことはありませんでしたが、鈴木商店再興の夢を太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)に託しました。昭和6(1931)年9月、金子は太陽曹達の相談役に就任すると、国内外に数々の新規事業を計画、調査を開始します。
そして再び事業経営に乗り出し、系列に神戸製鋼所を擁する20有余の多角的企業経営を復活しました。(右の写真は電話を前に食事中の金子直吉です)
金子は古希を過ぎても持ち前の事業意欲は尽きることがありませんでしたが昭和18(1943)年夏、さしもの金子も東京で風邪をひき神戸・御影に帰って養生しましたが体調を崩して病床につき、ついに回復することなく昭和19(1944)年2月27日未明、77歳の生涯を終えました。
鈴木商店の元社員の中で金子の最後を看取ったのは、ほかならぬ高畑誠一でした。(左の写真は金子直吉が最後に住んだ神戸市御影の自宅です。この自宅は金子を案じた鈴木商店の元社員たちから提供されたものです)
亡くなる10日前の昭和19(1944)年2月16日、金子直吉は病の床にあっても鈴木正氏に書状を認めて送り、ツンドラ事業について諄々と指図しています。さらに、死の8日前の同年2月18日には、アルミナ事業(サラワクのレジャン河の沿線のアルミナ製造計画のこと)について近藤正太郎氏に次の書状(これが絶筆であるかも知れないと言われています)により指示を出しています。
「拝啓 セメントを解決したりとせば、次はアルミナなり、是さへ得れば、最早天下は定まるかと被存候、依て彼の技師の事急ぎ取決め度、民間各社中無之とせば、学校方面、従来研究した人不酬依て東京も早稲田、慶應を主とし、東北大学、各専門学校、関西は京大、大阪各学校の中を特別の人を頼み調べさせては如何、右思ひつきし儘伺上候 恐々 直吉」(「金子直吉伝」より)
このように、金子は死の直前まで事業について画策を続けており、その鬼気迫る様子を想像するに、まさに希代、不世出の実業家・金子直吉の面目躍如たるものがあります。金子直吉は鈴木商店破綻後、残りの人生のすべてを鈴木商店の再興に捧げました。その生涯はまさに鈴木商店と一心同体といっても過言ではありませんでした。
昭和19(1944)年3月9日、金子直吉の葬儀が神戸市営葬儀場で質素に執り行われましたが、日商の社員全員もこの日の午後2時を期して故人の冥福を祈る黙祷を捧げました。なお、日商の広報誌「済美」は金子直吉の死を次のように追悼しています。
「陣頭指揮、率先垂範、日曜返上、其他凡そ為政者が今頃になって提唱し出したこと等を五十年来黙々実践されて来た翁の叡智と気魄と情熱とには唯々讃嘆の外は無い。今や国家がかゝる偉人を要望する事愈々急にして切なるものある時比偉人亡し、悲哉」
鈴木商店が破綻して33年後の昭和36(1961)年4月、鈴木商店のOBたちによって親睦団体「辰巳会」が発足しました。高畑誠一が初代会長に就任し、本部(神戸)のほかに東京、中部、四国、九州の4支部が設けられ、会員は、個人会員と旧鈴木商店系の法人会員30数社で構成されました。
辰巳会の名称は鈴木商店の屋号「辰巳屋」にちなみ命名されたもので、創立に当たっては高畑誠一(日商会長)、大屋晋三(帝人社長・大蔵・商工・運輸大臣)、浅田長平(神戸製鋼所社長)、永井幸太郎(日商社長・貿易庁長官)、住田正一(東京都副知事・呉造船所社長)、西川政一(日商・日商岩井社長、日本バレーボール協会会長)の各氏の他、多く方々が発起人になっています。(上の写真左は昭和38年3月14日・神戸田宮記念館での辰巳会、右は平成25年5月27日・神戸ポートピアホテルでの辰巳会全国総会の記念写真です)
かつて、鈴木商店の社員は関係会社を含め25,000人にも及びましたが、鈴木商店が歴史の舞台から去ってすでに90年近くが経過し、また辰巳会も創立から56年を過ぎ、発足時の500名ほどの個人会員は年を重ねるに従い年々少なくなり、かつての鈴木商店の社員は皆他界しました。
しかし、辰巳会は現在も故人の子孫・縁故者や関係者によって綿々と運営され、神戸と東京でそれぞれ年2回会合が開かれ、会報誌「たつみ」が発行されています。
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