神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第36回「エピローグ なぜ破綻?㊤ 組織の近代化遅らす」をご紹介します。
2017.3.5.
神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の「エピローグ なぜ破綻?㊤ (36)組織の近代化遅らす」が、3月5日(日)の神戸新聞に掲載されました。
今回の記事は、鈴木商店の盛衰を描いた小説「鼠」の著者・城山三郎が昭和49(1974)年5月、東京・紀伊国屋ホールにて鈴木商店破綻の原因について持論を展開する場面から始まります。続いて、金子直吉、当時の社員から見た鈴木商店破綻の原因が描かれています。金子直吉自らは「社内統制の麻痺」を、高畑誠一は「金子の独断専行」を、永井幸太郎は「過剰な(台湾銀行からの)借入金依存」を破綻の原因として挙げています。
第一次世界大戦の戦時景気に乗って鈴木商店は一気に業容を拡大し、それとともに明治末期に後藤新平を介して始まった台湾銀行との二人三脚により鈴木商店への貸出しは急速に膨らんで行きました。
金子直吉は「昭和金融恐慌秘話」(編者:大阪朝日新聞経済部、1999年3月1日発行)の「鈴木王国の巻」において次の様に語っています。
「...以上の三原因、即ち統率力の欠乏、船鉄交換の失敗および軍縮(ワシントン軍縮会議により「八八艦隊」の建造計画が中止になりました)が鈴木を下り坂に向わせた原因であるが、これがため...借金が雪達磨を転がすように大きくなり、それがついにまとまりをつけることができないまでになって、結局あの不始末を見るに至ったのである。誰に責任があるのでもない。皆私が大借金を負ったのが悪かったのだ。今になって熟々思う事であるが、如何に調子よく儲かるといっても、あまり手を拡げすぎると、いざ引締めねばならぬと思ったときになかなか思い通りにならぬ。...いずれも私の大きな間違いであった」
また、金子は大戦終結の気配から敏感な嗅覚の金子直吉は退却指示を発するもすっかり自信をつけた学卒社員の反対にあい、事業縮小の時機を逸してしまったとも語り、統制力の欠乏を鈴木破綻の第一の原因に挙げています。そして金子の不安は的中し、景気は一転して後退する中、業績悪化により台銀からの借入れは拡大の一途を辿るという悪循環に陥ってしまいます。
鈴木商店にとって「生産ということが最も尊い仕事である」という金子の信念から他の財閥のように自前の機関銀行を持たなかった(鈴木系列の六十五銀行は規模が小さく、とても鈴木商店を支えることはできませんでした)こと、さらに金子は鈴木商店は鈴木よねを筆頭とする鈴木家のものという思いが強く、株式公開による資金調達の道も自ら閉ざしてしまったことなどによる財務体質の脆弱さが鈴木のアキレス腱だったと言えましょう。
鈴木商店破綻の根底には、世の中の近代化が進んでいるにもかかわらず同社の体質改善が一向に進まなかったことがあるのかもしれません。鈴木商店記念館監修(元NHK放送記者)の大塚 融氏は報道部時代の著作「金子直吉と商人倫理」において次の様に記しています。
「退くことを知らぬワンマン経営者では、大正9年の反動恐慌、大正12年の震災恐慌を乗り切る手綱さばきを期待するのは無理だったろう。しかし、そうした金子の経営ポリシーもさることながら、組織が急速に肥大化しているにもかかわらず、また社会の動向も労働運動の高まりという近代化が進んでいるにもかかわらず、鈴木商店自体の体質改善が図られなかった点が、倒産の遠因になっているように見える。
...「現行例規集」(左の写真)の第二編には、"本家"と社員の関係として、新入社員、海外出張者、帰国者、転勤者、結婚した社員は妻とともに鈴木家にあいさつに行くこと、そのかわり鈴木家から紋服の贈与があること、お家様(鈴木よね)の写真が贈られること、が規定されている。この規定は、米騒動から半年後の大正8年2月、つまり鈴木商店のピーク時に新たに通知されていることに驚く。
高畑誠一がロンドンから財務内容の公表や株式の公開を求め、近代的企業への脱皮を促しているときに、金子は古くさい家業意識を一段と育てる道を選んだ。...金子は確実に時代の潮流を見失っていたのだ。ワンマン経営のためには家業意識のうえにのることは不可欠だが、ワンマン経営をチェックする組織体制に転換するほうがより発展につながるということに気づかなかったという気がする」
高畑誠一は「...一旦人を信ずれば飽く迄信用し自説を枉げず、他人の言葉は一切耳を藉されずして、進むを知って退くを知らず、拡張は好きであるが縮小は嫌い...」と語っています。(「柳田富士松伝」に寄せた感想文より)
永井幸太郎も「金子は私利私欲のない人だったが、旺盛すぎる事業欲が命取りになった」と語り(「総合商社の源流 鈴木商店」[桂 芳男著]より)、さらに大屋晋三(左の写真)も言います。「事業というものは進むばかりが能でないことは、これまた金子さんの例が教えている。金子さんに率いられた鈴木商店は退くことを知らなかった。その点私も突進するほうだから自省することしばしです」(「金子直吉遺芳集」より)
金子直吉の絶対的な補佐役たる西川文蔵(右の写真)が大正9(1920)年に47歳の若さで急逝したことが、鈴木商店にとって最大の痛手だったかもしれません。西川は第一次世界大戦勃発、大戦終結による反動不況、米騒動に伴う本店焼き打ちの各局面において個人経営の色彩の強い鈴木商店を近代的な体質に脱皮させようと腐心していました。
西川は高畑誠一、永井幸太郎らとともに資金を銀行からの借入だけに頼らず、株式を公開して広く外部に求めるという近代的な考え方を受け入れるようよう金子に進言しています。もし西川が早世していなければ、鈴木商店のその後の姿も大きく変わっていたかもしれません。いずれにしても、金子のワンマン経営を阻止する体制の欠如が破綻の原因の一つであることは間違いないと言えましょう。
下記関連リンクの神戸新聞社・電子版「神戸新聞NEXT」から記事の一部をご覧下いただくことができます。