帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ➀「鈴木商店の沿革及現況」(調査書P1~10)をご紹介します。

2024.5.8.

suuzkisyoutenntyousasyo2.png本日から、大正6(1917)年に帝国興信所(現・帝国データバンク)神戸支所が作成した「合名会社鈴木商店調査書」(以下「鈴木商店調査書」)の主だった内容についてシリーズでご紹介してまいります。

大正3(1914)年に第一次世界大戦が勃発すると、鉄鋼、船舶、食料を始めとするあらゆる商品を買い進めることにより莫大な利益を上げた鈴木商店は、その後も多様な製造業への進出を図りつつ旭日昇天の勢いで急成長を続けていました。

三菱合資会社(以下「三菱合資」)より依頼を受けた帝国興信所神戸支所は、当時総合商社として絶頂期にあった鈴木商店の主要な事業(直営事業29、分身会社19、主要関係会社15)を網羅した218ページに及ぶ「鈴木商店調査書」(大正六年上半期決算)を作成し同社に報告しました。

明治27(1894)年1月に三菱合資が設立され、明治30年代以降同社の各部門の事業が徐々に拡大していく中、三菱商事の前身である三菱合資営業部もまた取扱商品の範囲を広げ、三菱財閥の総合的発展の中心的役割を果たしていくようになります。

三菱合資営業部が総合商社への本格的な歩みを始めた頃に第一次世界大戦が勃発し、同部はこれを機に大正4(1915)年以降、ロンドン支店、ニューヨーク出張所を始めとする海外支店・出張所を急速に拡大するとともに取扱商品の多角化を進め、商品不足に悩むアジア方面へ日本製品を輸出し、また日本へ原料を輸入するための戦略的拠点の布陣を整えました。

iwasakikoyata.png大正5(1916)年、岩崎小彌太(岩崎彌太郎の弟・彌之助の長男)が37歳にして三菱合資の第四代社長に就任すると、小彌太は事業部門の独立採算制を導入すべく各事業部門を分離・独立させ、三菱合資が持株会社として傘下の事業を統括する体制を確立しました。(右は、30歳頃の小彌太です)

大正7(1918)年4月19日、同社営業部が三菱商事として独立すると、小彌太は商事の取締役会長を兼任し、大正10(1921)年まで務めました。

当時、鈴木商店は三井物産と熾烈な競争を展開していましたが、一方で三菱合資は大正7(1918)年に三菱商事の独立を予定していたことから、競合関係にあった鈴木商店の全容を把握するため、大正6(1917)年頃に帝国興信所に調査を依頼したものと思われます。

この「鈴木商店調査書」は東京大学経済学図書館・経済学部資料室が所蔵する「三菱本」の一資料であり、当記念館の「鈴木商店関連資料」にも掲載していますが、手書きのため文字がかすれている、漢字が旧字体で書かれている、一部 "くずし字" で書かれている、などの理由により読みづらい箇所が多々見受けられるため、この度全文を翻刻(ほんこく)しましたので下部の関連資料よりあわせてご覧下さい。

※翻刻作業に際し、読みやすくするため縦書きを横書きに変え、適宜句点・読点を付けるとともに段落を設け、読みづらい漢字にはフリガナを付けました。なお、この度判読できなかった一部の文字については "〇〇〇" のように表示しています。

さて、シリーズの初回は「鈴木商店の沿革及現況」(調査書P1~10)をご紹介します。

kanekonaokititigotousinpei.png明治7(1874)年、鈴木商店は洋糖引取商(輸入商)として神戸に創業し、店主・鈴木岩治郎の手腕により明治19(1886)年には資力三万円以上の「神戸有力八大貿易商」に数えられるまでに成長しました。

岩治郎急逝後の明治28(1895)年、金子直吉率いる鈴木商店は下関条約の締結により日本領土となった台湾に進出し、明治32(1899)年の台湾樟脳専売制度の実現に尽力して台湾総督府民生長官・後藤新平の信頼を勝ち取ることにより専売樟脳油の65%の販売権を獲得し、資本の蓄積を図りました。(左の写真は、金子直吉と後藤新平です)

明治35(1902)年、鈴木商店は個人商店から合名会社へと組織変更を行い、以後同店は取扱商品を急拡大するとともに生産部門(製造業)にも積極的に進出し、事業の多角化を進めました。

dairiseitousyo.png明治36(1903)年、鈴木商店は大阪辰巳屋(店主・藤田助七)との共同出資により、門司市に隣接する福岡県企救(きく)郡柳ヶ浦村大字大里(だいり)(後・大里町)に大里製糖所(右の画像)を設立すると(たちま)ち先発の日本製糖、日本精製糖を圧倒するところとなり、交渉の結果明治40(1907)年、総投資額250万円の大里製糖所を650万円で大日本製糖(先発の二社が合併して設立)に売却しました。

これにより、鈴木商店は巨額の利益(売却益400万円)を獲得するとともに、見返りに大日本製糖における各地の一手販売権を取得しました。そして、この売却資金がその後の鈴木商店の活動の大きな原動力となり、多角化戦略を展開する源となりました。

なお、調査書にはこれらの経緯が記され、続いて次のような鈴木商店の特徴や課題が記されています。

天資てんし英邁えいまいで明敏な金子直吉は、神戸市の小さな一砂糖問屋カネ辰商店を遂に日本の大実業家として神戸鈴木商店の名声を天下に知らしめた。これは、まず金子氏その他の献身的努力によることは勿論であるが、一面また未亡人よね女(鈴木よね)の聡明にして女丈夫じょじょうふ的資性によるものである。」

「鈴木商店の方針は創設的というよりも既設事業の買収方針を採る傾向がある。その手法は敏速果敢であり、まさに当代随一で他に多くその類を見ない。これがやがて今日の拡大を実現した要因であろう。」

「既設事業は多く経営難に陥ったものを引き受け、これを整理して適材を配置し、内容の充実、業務の拡張をはかり、豊富な資金と同店の勢力によれば、従来微々として振はなかった事業も忽然こつぜんとして隆々たる活況を示さないものはない。」

「鈴木商店が既設事業を買収するに当り、その経営難に乗じて極めて安価に買収し、内容を整理して更に増資することが通常であるが、同店の手に移るとたちまち隆々たる盛況を示すのを見て、被買収者はこのように安価に売り渡すことは全く辛辣(しんらつ)的圧迫の結果であると不平を唱える者がある。」

「貿易業、販売業、樟脳・薄荷業、魚油・大豆油業、製鋼業、造船業、製錬業、製糖業等は相当の基礎を持ち良好の成績を示しているが、その大部分は最新の経営によるものであり、今後どのような結果をもたらすかは経済界の盛衰と経営の良否により決定するものなので、第一次世界大戦以来急激に拡張・膨大する鈴木商店はこれら最近の事業に対し多大な努力を払うことにより、平時戦争に対する基礎の確立を期さねばならない。」

このように、金子直吉と鈴木よねの経営に対する姿勢を高く評価するとともに、同社の積極主義や既設事業の買収方針による事業の拡大についても評価する一方で、買収先に対する対応などの問題点を挙げるとともに、急激に業容を拡大して来た同店は最新の多くの事業に多大な努力を払い、根底(基礎)を確立しなければならない、と記しています。

帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ②「本支店所在地」(調査書P11~14)をご紹介します。

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