帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ②「本支店所在地」(調査書P11~14)をご紹介します。

2024.5.18.

「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの2回目です。

suzukisyoutenhonten.jpg調査書が書かれた大正6(1917)年当時、鈴木商店の本店は神戸市東川崎町一丁目一番地(現・神戸市中央区栄町通7丁目)にありました。(左の写真)

この本店は、前年の大正5(1916)年にみかどホテル新館を後藤回漕店から買収し新社屋としたもので、建築家・河合浩蔵の設計によるコロニアル風の瀟洒な木造3階建ての鈴木商店の躍進を象徴する建物でした。



しかし、大正7(1918)年8月12日に起った神戸の米騒動の際に、風説の流布・暴動の衝動性から焼き打ちという悲劇に見舞われ、灰塵と化しました。(鈴木商店焼打ち事件)

※当記念館は神戸繁栄の一端を築いた鈴木商店の歴史的価値を後世に伝えるため、神戸開港150年を記念して、この東川崎町(当時)の本店跡地前に「鈴木商店モニュメント」を建立し平成29(2017)年7月7日に除幕式および贈呈式を執り行い、神戸市に寄贈しました。

調査書には「支店は国内6(東京、大阪、下関、函館、小樽、旭川)、海外3(台湾、京城、上海)の計9、出張所は国内3(横浜、名古屋、鹿児島)、海外10(ロンドン、ニューヨーク、台南、大連、香港ほか)の計13、出張員事務所は国内7、海外13の計20」と記されています。

rondonsyuttyoujyo.png台湾進出(明治28年)により飛躍の第一歩を踏み出した鈴木商店は明治30年代以降、鋭意海外支店・出張所の開設を進めました。

鈴木商店は創業の原点・洋糖の直接輸入のため明治39(1906)年に上海に足掛かりを設けたのを皮切りに、明治40年代後半にはロンドンに出張所(後・ロンドン支店)を開設し、その後ロンドンの高畑誠一(右下の写真)の大活躍により一挙に業績を伸ばしました。(右の写真中央のビルは、ミンシングレーンE.C.3のロンドン出張所です)

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大正3(1914)年7月に第一次世界大戦が勃発すると、当初は開戦ショックからわが国の貿易・海運業界は大混乱となり、深刻な不況に陥りました。しかし、本店の金子直吉(左の写真)はあらゆる商品の暴騰を予想し開戦3か月後の同年11月、千載一遇の大好機と捉えて全ての商品・船舶に対する "一斉買い出動" の大方策を打ち出しました。

金子が最初に目を付けたのが "鉄" で、ロンドンの高畑に宛てて「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE」(鉄と名のつくものは何でも金に糸目をつけず、いくらでも買いまくれ)という異例の電報を発信しました。


さらに翌大正4(1915)年11月、金子はロンドンの高畑ら3名に宛てて、後に「天下三分の宣誓書」と称される並々ならぬ決意を披歴した気迫溢れる長文の書簡(毛筆による長さ6メートル余りの書簡で、現在太陽鉱工により神戸市立博物館に寄託されている)を送り、更なる大躍進を遂げていくに当たっての大号令を発しました。

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裁量の一切を任された高畑は鉄(銑鉄、鋼材)、砂糖、小麦など値上がりが予想される商品を猛然と買い集めると、大英帝国といえども鈴木商店にとっては一介の客に過ぎぬという気概に燃え、イギリス政府、連合国を相手に船舶や食料品の売却に縦横無尽の活躍を展開しました。

また、高畑は当時まだ未開であった、本国を介さない「三国間貿易」を積極的に推し進めるなどその手腕を遺憾なく発揮し、鈴木商店に莫大な利益をもたらしました。

鈴木商店はその後も支店・出張所網を拡充し、欧米、中国大陸、アジアを結ぶネットワークを構築しました。

鈴木商店の支店・出張所について「総合商社の源流 鈴木商店」(桂 芳男著 日経新書 昭和52年11月28日発行)には次のように記されています。

dairensiten.png『大正七~十五年における公式の「内外支店出張所」の総数が、「本店」神戸を中心にそれこそ蜘蛛手(くもで)を拡げたごとくにグローバルな分布を示して、七十有余を超え五十有余を下ることがなく、大正十五年においても「一五支店・四二出張所体制」を保持していたのである。』(左の写真は、当時の大連支店です)

当記念館の地域特集「世界地図」では、ロンドン、ハンブルク、米国、中国、ウラジオストク、ムンバイ、マガディ、スラバヤ、サラワク、シンガポール、メルボルンに分類し、鈴木商店のグローバルな活動の軌跡を紹介していますのであわせてご覧下さい。

帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ③「製油事業」(調査書P18~23)をご紹介します。

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