帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ⑥「日沙商会サラワック農場」(調査書P40~41)をご紹介します。

2024.8.30.

「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの6回目です。

yoriokasyouzou.png明治43(1910)年、日沙(にっさ)商会は金子直吉から援助を受けた依岡(よりおか)省三(左の写真)によりボルネオ島サラワク(現・マレーシア・サラワク州)のゴム栽培事業を目的として設立され、大正2(1913)年に鈴木商店が買収し、同社の海外事業会社としてゴム農園経営によるゴム栽培、石炭採掘を中心に運営されました。("日沙"とは"日本"と"サラワク"の連結呼称です)

明治44(1911)年、依岡省三が病死したため、当時神戸製鋼所に在籍していた弟の依岡省輔(神戸製鋼所専務取締役)(右下の写真)が日沙商会の事業を引き継ぎました。

yoriokasyouzuke2.png一方、当時鈴木商店の化学工業部門への進出の門戸と言われている(あずま)レザー(明治40年設立、大正4年に(あずま)工業と改称)では、久村清太により後に人造絹糸の事業化(後の帝国人造絹糸、現・帝人)に繋がるビスコース(木材パルプを主原料とする再生繊維)の研究が進められていました。

minumekoujyo.pngまた、神戸市武庫郡西灘村の(みぬ)()神社に隣接する東レザーのゴム工場(敏馬分工場)では自転車タイヤ・チューブ(サクラタイヤ、アズマタイヤ、スマートタイヤなどの商標で製造)、ホース、パッキンなどを製造していましたが、さらに同地でのゴム工場増設の際に新たにファイバー製造工場を建設し、ファイバー(硬化繊維板)事業にも着手しました。(左の写真は、敏馬分工場です)

nissasyoukai2.png大正2(1913)年、鈴木商店は東レザー敏馬分工場でのゴム製品製造の拡大とファイバーの製造開始を機に同分工場の「ゴム・ファイバー工場」を分離し、サラワクの「ゴム農園」と合併すべく日沙商会を買収しました。

これにより日沙商会はゴム栽培から製造までの一貫体制が整い、大正6年(1917)年には株式会社化を実現しました。(本社:神戸市、支店:サラワクのクチン)(右の写真は、日沙商会サラワク事業所です)

大正3(1914)年5月、日本輪業合資会社が鈴木商店傘下のゴム製品販売会社として設立されましたが大正13(1924)年3月、同社は日沙商会のゴム部門を吸収合併し、社名を日本輪業株式会社に改称して製造から販売までを一体経営する体制として再出発しました。

鈴木商店経営破綻後の昭和9(1934)年、日沙商会は三井系の帝国堅紙と合弁で東洋ファイバーを設立します。同社は平成24(2012)年に北越紀州製紙の系列となり、平成26(2014)年に北越東洋ファイバーと改称し、わが国唯一のバルカナイズドファイバー(塩化亜鉛処理による硬化繊維)専業メーカーとして躍進を続けています。

日沙商会は昭和12(1937)年に依岡省輔が亡くなった後ボルネオ産業と改称し、新たに銅鉱山開発等の事業展開をはかりましたが、終戦により全ての事業・資産を失ったため昭和20(1945)年に解散を余儀なくされました。

なお、調査書には、次のように記されています。

「この農場は元依岡省輔氏の実兄(依岡省三)の経営によるゴム栽培事業であり、4年前(大正2年)に鈴木商店の経営に移ったものである。投資額は約40万円に達し、サマラハン園は面積2,000エーカーで、ゴムの植付数は約20万本を数え、明7年度より毎年2万本ほどのゴムを採取し、着手後10年ほどで投資額全部を回収し、その後は単に経費を支出するのみで、その他は全て純益となる計算になるようである。」

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