帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ⑦「株式会社神戸製鋼所」(調査書P43~48)をご紹介します。

2024.10.10.

「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの7回目です。

調査書では、株式会社神戸製鋼所以下の14社と(あずま)工業株式会社、(おき)見初(みぞめ)炭坑株式会社の計16社を「分身会社」に分類しており、「分身会社」については次のように記されています。

「鈴木商店分身会社は表向きは法人組織であるが、その内容においては単に名称を異にする鈴木商店の直営会社に過ぎず、従って、会社幹部も全て鈴木商店の使用人であり、経営上全てにわたり同店の指揮を受けるものである。」

なお、「総合商社の源流 鈴木商店」(桂 芳男著)には、「分身会社」について次のように記されています。
「『鈴木商店人事内則案』(大正6年)によれば、『鈴木商店が資本ノ大部分を負担スル会社』を意味し、『直系の直系』とでも称すべきタイプ、つまり『完全ないし大部分所有支配型』に対する固有の言葉である。」

tamiyakaemon.png明治38(1905)年9月1日、鈴木商店は神戸市(わきの)(はま)の小林製鋼所(経営者:小林清一郎)を買収すると神戸製鋼所と改称し、平炉メーカーとしてスタートを切りました。(創業) 

創業当時の製品は(いかり)や炭鉱用トロッコの車輪などの鋳物でしたが、設備の不備と技術の未熟さから赤字が続き、創業後の4年間は苦境に次ぐ苦境の連続で、金子直吉と支配人の田宮嘉右衛門(後・第5代社長)(左の写真)の二人は一時期廃業も覚悟するほど思い悩みました。

そんな最中の明治40(1907)年、鈴木商店は総投資額250万円の大里製糖所を650万円で大日本製糖に売却することにより400万円と言う巨利を獲得し、神戸製鋼所はこの利益の一部により10トン炉と15トンクレーンを増設することができ(55万円という巨額投資)、苦境脱出の糸口となりました。

yoriokasyouzuke2.png一方で、金子直吉は予て懇意であった海軍少佐・吉井幸蔵(伯爵)に対し、鈴木商店の依岡(よりおか)省輔(右の写真)を交渉役として当たらせ、最終的には呉を始め横須賀、佐世保の海軍工廠から大型の受注獲得に成功しました。

設備拡充と海軍からの大型受注獲得により神戸製鋼所の赤字は漸く解消に向かい、それまで鈴木商店の一部門であった神戸製鋼所は創業6年後の明治44(1911)年6月28日、鈴木商店から分離・独立し、(株)神戸製鋼所として再出発しました。(創立)

kakutyoujidainohonnsyayamanoekoujyou.png神戸製鋼所は鈴木商店からの独立(会社創立)を機に次々に新分野に参入していきましたが、大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦による空前の特需を背景に、工具、鍛鋼(たんこう)、機械、非鉄金属と事業の多角化を強力に推進していきました。(左の写真は、明治43年頃の拡張中の本社山手工場です)


1200tonpuresu.png同社は、海軍から受注した大型鍛鋼品の製造には大型のプレスが必要不可欠であったことから、田宮嘉右衛門は金子直吉の了解を得て大正3(1914)年に1,200トンプレス(右の写真)を導入すると、続いて大正10(1921)年には2,000トンプレスを導入し、大型鋳鍛鋼メーカーとしての地歩を確立していきました。

一方で、明治44(1911)年に工具事業に参入し、大正4(1915)年以降は空気圧縮機、製糖機械、ディーゼルエンジン等多種多様な機械を製造し、機械メーカーとしての道も歩み始めました。(下の写真左は「神鋼ズルツァ4ST60型ディゼル機関」、右は「神鋼D1600型横串型二段式アムモニヤ圧搾機」です)

さらに、大正6(1917)年には門司市に伸銅工場を立ち上げ、非鉄金属メーカーとしても発展していきます。なお、同社は当初造船業への参入も目指していましたが、大戦終結による船舶需要縮小のため断念しました。これらの事業は互いに好影響を及ぼしながら発展していきましたが、この頃に現在の神戸製鋼所の鉄鋼、機械、非鉄金属という事業の大枠が構築されました。

kikai2.png業容の急拡大に伴い、同社は設備の拡充と工場用地拡大のため大正4(1915)年10月、神戸市(わきの)(はま)の公有水面4万坪(12万㎡強)の埋立工事を開始し大正8(1919)年には本社海岸工場がほぼ完成しました。(なお、この埋立工事は田宮嘉右衛門の信認が厚い三輪組(現・三輪運輸工業)が主体となって実施されました)この工場は、その後長く同社の主力工場として稼働することになります。(下の写真は、脇浜の本社海岸工場のごく一部です)

honnsyakoujyou.png現在、かつての本社海岸工場一帯は阪神・淡路大震災からの復興をめざすシンボルプロジェクトの一事業「HAT(Happy Active Town)神戸」として開発され、西のハーバーランドと対をなす神戸の東の新都心となっています。




なお、調査書の「会社の沿革及現況」には、まず同社の創業から創立までの経緯が記され、続いて「第一次世界大戦勃発以来需要が激増して昼夜兼行で日も不足するほどの盛況となったため、工場、設備の増設をはかるとともに脇浜の海面埋立工事も着々進行しつつある」と記されています。

また、「同所はかねて造船計画に着手し、脇浜埋立地において一万トン級以下、大小五個の船台を設備し、近々完成の見込である船台の新設備と二千トン水圧鍛造(たんぞう)機(2,000トンプレス)が完成すれば、生産力は著しく増大し‥‥」と記されていますが、大正7(1918)年に第一次世界大戦が終結すると船舶需要が一気に縮小したため、同社は造船業への進出を断念しました。

最後に、「同所は鈴木商店分身会社中の重要事業であり、総投資額は約1,000万円に達し、将来ますます拡大すべき計画である。」と締め括っています。

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